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昨年末にちょこっとやっていた何かのコマーシャル(最近物覚えが悪くて困る・・・(笑))のシーン。
多分IKEAと思われる広いお店のベビーカート売り場で、どれにしようか迷った後に結局買わないで行ってしまう夫婦・・・そこへ、ナレーションが流れる。
「人は選択肢が多くなると、結局何も選択できなくなってしまうのです」(これも正確じゃないかもしれないが)。

それを見て、ちょっとどこかで聞いたような台詞だと思い、ネットで検索してみた。
すると、大前研一さんの「一人勝ちの経済学」という著作の中に、そっくり同じような記述があるのを発見(この本、私は読んでいない)。
以下、この本を紹介した「en career news」より要約・引用。

『大前さんがこの本を書いたのは、近年、音楽や映画、ゲームやキャラクターの商品で、今まででは考えられなかったメガヒットが乱立している現象を「一人勝ち」と名付け、これらの大ヒットの裏側に、「人は選択肢が増えると、かえって選択ということをしなくなるのではないか」という疑問を感じたことから、この『一人勝ちの経済学』ははじまる。
近年日本で進行しているのは、様々な場所で言われる、「多様化」なのではなく、一極化という全く逆の方向性なのではないだろうか。そんな問題提起によって書かれた本書は、近年のメガヒット乱立の状況分析から、日本の経済・金融・産業に関して、そして日本とアメリカの関係、世界の経済に関して、と様々な問題に対して鋭い分析を加えている。』

要は、あらゆるものが多様化し、消費者にとっての選択肢が拡大すればするほど、人は各自の選択という決断を放棄し、トレンドや情報に流されて「他人と同じ」選択をしようとするのではないか、それがメガヒットという消費の一極化を生んでいるのではないか、という分析であろう。
1999年に出版されたもので、十年近く前の消費社会を切り取っているわけだが、今でもそれは変わらない・・・と言うか、そうした動向は、すでに我々日本人の消費と経済のデフォルトとなっているのではないか、という気さえする。

で、そこにある潜在意識のキーワードは一体なんだろう、と考えてみた。
それは、「安心」なのではないか。
多くの選択肢の中からひとつだけ選べ、と言われる状況は「迷い」を人に生じさせる。
迷いの生じる理由は、果たして自分の選択が正しいかどうか自身が持てないからで、(例え自分自身にしか影響が及ばないとしても)間違った選択をしたらどうしよう、という不安があるからであろう。
選択肢が少なければ少ないほど「選択肢がないのだから仕方ない」という言い訳が成り立つが、多くなればそれだけ選択に対する決断力と自己責任が必要となる。
逆に、誰かが先に選択しているものを選ぶのは勇気も要らないし、安心である。
そうした心理が働くのではないかと想像する。
よって、「本当にその選択したものが自分にとって一番価値があるもの」かどうかの判断基準はないし、当事者にとってもどうでも良いことなのかもしれない。

しかし、物づくりをする立場からすると、それはオリジナリティ(個性・創造性両方の意味で)の喪失という危機的状況を加速する。
なぜなら、我々は、常に「どこにもない」新しいものを表現していかなければならないからで、マイナーな価値観に訴えるところからスタートしなくてはならないからである。
よって、それはすでに確立されたメガヒットとは無縁のものであり、将来的にも不特定多数の賛意を得られることなどまずあり得ない。

例えば、我々がデザインするとき、まず「こういうものを創りたい」というイメージが(ぼんやりとでも)先に頭の中にあって、その夢想を現実的な形にするためにはどうしたら良いか、という手法を考える。
例えその方法論に知識やスキルがないとしても、それを考えること自体が「デザイン」であり、そこから生まれるのが「新しい形」である。
つまり、その初めに抱いたイメージに強い意志と執着、言い換えれば「絶対にこうしたい」という選択がなければ、その夢想が形になることはないのだ。
要は「何がしたい」という目的がなければ、何も出来ないと言うことである。

そして、それは進学や就職などの「将来」という選択の際にも同じことが言える。
世の中には仕事の数(種類)など数え切れないほどあるのに、したい仕事がみつからない。
将来、自分が何をしたいのか分からない。
それが決められないから、どんな学校に進んで何を勉強したらよいのか分からない・・・
で、取りあえずは親の示した選択によって、大学へ入る。
そこでも「何の専門」かよりも、「入れるかどうか」の判断基準で大学と学部を選ぶ。

就職の際にも同様。
とりあえず会社の規模や給料、労働条件は気にするが、何を作っている会社なのか、何を売っている会社なのか、などは二の次。
結果、六大学の法科を出た人間が、施工会社の現場監督となって百貨店で徹夜していたりする。
まあ、それも本人が現状の仕事に満足してきちんとやっていれば何の文句もないが・・・明らかに「向いていない」とはたから思われるようでは、選択が間違っていると言うことであろう。

そう言えば、今教えている某専門学校の掲示板に、こんなポスターが貼ってあった。
「したい就職をしたいのか、できる就職をしたいのか・・・あなたはどっち?」

そう、デザインの専門学校で学ぶ学生達だって、話を聞いているとほとんど変わりはない。
学期の初めに「なぜ、この学校に入ったのか」という問いと共に「今後、デザインの仕事をしたいと思っているか」という質問をクラス全員にするのだが、半数くらいから「別にまだ決めていない」という返事が返ってくる。
又、就職の相談をしてくる学生から「やっぱ、大手の企業が良いと思うんですけど〜」と言われ、「何故?」と聞くと、「土・日が休めるから」とか「万が一独立できなくても、ずっといられる」とかの答。

小学生の時であろうと中学生の時であろうと、例え高校卒業間際であろうと、折角「デザインをやりたい」と決めて選択した学校に入ったのに、将来どういう仕事をしたいのかがなかなか決められない学生達・・・すでにその時点で世間的なマジョリティからは外れているのに、そこでも「寄らば大樹の陰」と大企業への就職を望む学生達・・・
きっと、彼らの中では「学校」と「仕事」は別のものであり、学校は単に、例え「卒業」というだけであろうと資格を得るための場所なのであろう。
だから、出席日数を気にし、課題の評価にこだわる。
果たしてデザインをしていて楽しいのだろうか、と疑問に思う。

もう一度、大前さんの記述を引用する。
『つまり、自分がどういう人生を生きたいのかという「答え」によって、時間のかけ方もお金のかけ方も決ってくる。自分が何を手に入れるべきかも決ってくる。逆に言えば、どういう人生を生きたいのかが決っていない人には、自分が何を手に入れるべきかが分からないということである。』

それは、仕事や勉強だけでなく、人生そのもの・・・つまり、趣味や遊び、お金の使い道や人との付き合い方など全てに言えることであろう。
人生の晩年を迎えて「自分は幸せか」と自問した時、例えば持ち家があるからとか、お金が十分あるからとか、一緒に暮らす家族がいるからとかも重要だろうが、それまでの人生で自分が選択してきた生き方に充足感を持てるかどうかということも大きいような気がする。
例え悔いが残ったとしても、「選択しない後悔」よりは「選択した後悔」の方が納得できるのではないだろうか。



時間が経つに連れて更に被害拡大の様相を呈し、治まるばかりか、一向に行く先が見えない「構造計算偽装」事件。
私自身は2級建築士の資格を持ってはいるが、これは1級建築士とは比べようもない「役に立たぬもの」で、実際、その資格証もどこかにしまったきり、事務所登録もしていないのでペーパードライバー同然である。
しかし、建築設計事務所で働いたこともあり、今も住宅程度の設計はするし、多少の知識はあるので、どうしても、毎日のかまびすしい報道を「専門的な目」で見てしまう。
そうした中で、その報道の取り上げ方や視点、論点などに、疑問を感じたり興味を引く点があった。
そのことをちょっと書きたいと思う。

まず、ずっとこの件の報道を見聞きしていて、今更ながら驚いたのは、日本の建築基準法やそれに伴う申請業務、建築設計や工事のシステムについての、メディアの説明不足というか、実のところは勉強不足による誤解である。
又、ワイドショー的な番組には、専門的な意見を聞くべく、建築士の人が毎日入れ替わり立ち替わり出演していたが、「一体この人、どこの誰?」という感じで、全く知名度のない人ばかり、そのコメントも「あまりに専門的すぎて分かりづらい」か「誰でも知ってるよ、そんなこと」的な一般的な内容という、極端なものが多かった。

そうした「専門家」のコメントの中でちょっと気になったものがある。
それは、ある構造設計の建築士が述べた、「彼は(A建築士のこと)ただの代書屋なんですよ。だから、実際に建つ建物には何の興味もないし、どうなろうが関係ないのね。1級建築士の資格を持っていたって、皆が皆、ちゃんと設計の仕事をして食べられるワケじゃない。だったら、その資格を使って、食べていこうとするのは当然でしょう」というもの。
果たしてこのコメントを聞いて、全く建築業界と関係ない一般の人たちが、どれだけその内容を理解出来るだろうか。
普通の人たちは、当然ながら「建築士」と言えば、建物の設計をする人のことだと思っている。
壊れる建物を建てては困るから、その為に「構造計算」というものが必要で、建築士の専門分野として「構造設計」という仕事があるのだという理解はあると思う。
それが、代書屋? なんだ、それ・・・と、誰しも思うのではなかろうか。

このコメントをしゃべってしまった建築士を出演させた、この番組もどうかと思う(無知ゆえだろうが)。
いきなり、こんな「専門的」なこと(しかも裏話的なネタ)を、いやしくも同業者である建築士がさも当然のように言ってしまったら、そりゃ、一般視聴者は混乱する。
しかし、この番組に限らず、今回の事件の根本にある「建築確認申請業務」、更に今は共犯のように叩かれている「検査機関」、そしてその双方が絡むシステムについて、素人にも分かるように説明している番組や新聞がほとんどない。
建築基準法で定められた「建築確認申請」という業務が一体どのようなものなのか、それが先に理解出来ていれば、先の建築士のコメントの「代書屋」という言葉も理解出来るのである。

実はもう一人、かなり「専門的な」コメントをした建築士がいる。
この人は、テレビではすっかりお馴染みの「建築Gメンの会」の中村さんという人だ。
A建築士が構造計算を偽装したというある建築済みのビルに行って、実際の梁や柱を調査しながらこう言った。
「書類上はどうでも良いんです、大切なのは実際に造られたその建物の、柱や梁にちゃんと必要な鉄筋が入っているかどうかですから」
このコメントも、一般人の人は理解に苦しむのではないだろうか。
え?なんで書類上はどうでも良いんだ?

上記した二つの建築士のコメント、実は言っていることは全く同じこと。
それを一言で言うなら、申請書類に書かれた図面(や計算書)と実際の現場は違う、言い換えれば「書類は書類」、「現場は現場」ということである。
いや、もちろん同じでないといけないのだが、ここに「建築確認申請の盲点」と「建築業界の長年の風習」という要素が絡む。
誤解をされると困るので、少しその説明をしたい。

まず、建築確認申請というのは、あくまでも「このような建物を建てたいと思います、建築基準法を元に書類を作成しました、付きましてはそのチェックをして許可を下さい」と役所に提出する書類である。
何にせよ、この書類が出されなければ、プロジェクトはスタート出来ない。
そして、この申請業務という仕事は、建築士という国家資格を持った人間しか出来ないのである。
もちろん、きちんと設計の依頼を受けた設計事務所が通常は行うものであるし、大きなゼネコンや工務店には社員として何人もの建築士が在籍する。
しかし、この申請業務、書類作成が非常に煩雑であり、時間を節約する意味もあって、そうした書類作成(もちろん、書類に署名はするが)のみを請け負う建築士に依頼する場合がある・・・まあ、「代書屋」という言葉は悪いが、それが、初めの建築士のコメントである。

更に、もうひとつの関連で言えば、建築設計業務においての細分化が要素として絡む。
建築の設計というのは、大きく分けて「意匠設計」「構造設計」「設備設計」という専門分野がある。
これも大手ゼネコンでは全て自社でそれぞれの専門家を抱えているが、通常の設計業務の流れとしては、まず、意匠設計の設計事務所が仕事を請け負って、その後に自分の外部ブレーンである構造設計事務所や設備設計事務所に、それぞれの業務範疇を外注する。
どの意匠設計事務所も、一つのプロジェクトを完成させるために、チームとして協力してくれる構造や設備設計の事務所をブレーンとして持っているのが常であり、よって、構造設計や設備設計は二次的な外注業務となることが多いのである。
なので、今回の事件は、構造設計を担当したA建築士ばかりがクローズアップされているが、実のところ、確認申請書類の総合責任者としては、元請けの意匠設計事務所が署名・捺印しているはずなので、本来はそちらの責任の方がもっと問われても良いのである(これは、森ビルの回転ドア事件の時も同じ事)。

次に、設計事務所の仕事としては、無事、確認申請が下りました(大体1ヶ月程度要する)・・・という段階になって(時間がない場合は並行して進むが)初めて、「実施設計図面」(実際に建築するために必要な図面)の制作に入る。
少なくとも、真っ当な設計者の認識としては、「確認申請用の図面」と「実施設計用の図面」というのは、全く違うものであり、いわば、ここからが本番である。
何故なら、第一にその目的が違う。
役所からの許可を貰うための図面は、時間的な問題もあって、あくまでも建築基準法をクリアすることを目的としたもので、内容的にはほとんど「練れていない」、便宜上の簡便なものの場合が多い。
そこから、予算や使い勝手など施主の要望を改めて反映し、実際の工事のための詳細な図面を描き直すのである。
なので、私や上記の建築士達がおかしいと思う最大の部分は、今回の問題の建物が「確認申請用の図面」のまま施工されてしまったことにある。

通常、建築基準法違反をする場合、その「申請図面」と「実施図面」の違いは、逆の形となって表れる。
つまり、申請図面は正直に法を遵守した形で提出してすみやかに許可をもらい、実施設計の段階で違反も考慮に入れた「一番望ましい形」に描き直す、というものである。
何故なら、当然「役所の目は節穴」ではないし、まず申請段階で違反など出来るわけがない。
しかし、基準法上、その建物が確かに図面通りに造られているかどうか、という現場の検査は、必ずしも必要ではないので(公的融資を受ける場合や大型施設の場合には、中間検査と竣工検査が必要である)、許可が下りてしまえば後はこっちのもの、という認識があり、これが盲点とも言える部分である。

なので、その件に関連して私が当初疑問に思ったのは、何故、申請図面を偽装するという「危ない橋」を渡る必要があったのか、許可が下りた後に設計を変えることなどいくらでも出来たのに・・・ということであった。
しかし、後になって、そうか・・・と思い当たったのは、今回問題になった建物にマンションが多いことである。
分譲であれば、当然各戸に住宅金融公庫の融資が付く。
そうであれば、当然、中間検査や竣工検査が入るので、申請用の図面と現場が違っていてはまずい、という判断だったのだろう。

その件に関しては、今回の事件は、1998年に確認申請の許可業務が民間に開放された、いわば規制緩和政策にも問題がある、と言われている。
以前のように役所に提出していたなら、その時点で見抜けたかどうか・・・それは誰にも分からないが、イーホームズという民間の申請業務会社が、民間故に手を抜いたのではないか、ということである。
もちろん、あきらかに偽装した書類を、そのまま通してしまったイーホームズも、当然責を負うべき立場と言える。
しかし、一般の人たちが誤解しやすいので再度説明するが、役所にしろ民間の検査機関にしろ、あくまでもその役割は「申請図面」のチェックと建築許可を与えることである。
先に書いたように、もし、申請者が許可を貰った後に確信犯で違反建築をする場合には、彼らには何の責任もない。
もし中間検査や竣工検査でその違反が発覚した場合には、当然、工事差し止めや使用禁止の命令を出す権限を持っているが、偽装を見抜けなかったからと言って「その建物が耐震基準を満たさないまま建てられてしまった」ことに、全面的な責任はないのである。

以上のことから、今回のこの事件、はっきり言わせて貰うが、関係した皆が「知っていた」のだろうと私は思う。
偽装の箇所が地震の係数という「数字」だったこと、それはちょっと見抜きづらい偽装だったかもしれない。
しかし、A建築士は、その数字を元に柱の断面図や梁の断面図といった「ビジュアル」までも、図面として残している。
長年同様規模の建築物の設計に携わっている意匠設計の建築士、そして同じく施工をしているゼネコンの両者は、絶対にその図面を見た途端に「分かった」はずだ。
イーホームズに関しても、昨年の秋にすでにA建築士の偽装を報告した建築士がいたという。
普通だったら、そのような情報があれば「特に注意して」検査するはずではないか・・・グルだったと思われても仕方ないと思う。

今は、全ての登場人物が責任のなすり合いをしているが、誰かが「知らない」なんて絶対にあり得ない。
危ない建物であることを知りながらも、使用者の安全を全く考えもせずにそのまま造ってしまったこと・・・そこに何の良心もないのか、ともちろん思う。
しかし、一番の戦犯は・・・施主である。
「コストダウンをお願いしたが、偽装をしろとは言っていない」なんて、チャンチャラおかしいせりふである。
「これしかカネは出せない。この中でこの規模の建物を建てよ。その為なら何をしたって構わない。出来ないなら二度とお前の会社に仕事は出さない」・・・それぐらいのことは、絶対に言っているはずである。

もちろん、いくら脅迫されてもそれに屈して「やってしまった」ら、それは共犯である。
しかし、私は、この事件によって露呈した現代日本社会の有り様、そしてその背景に、暗鬱な思いを抱く。
どんなに安く叩かれても、生きるためには(犯罪を犯すまでは至らなくても)モラルを捨ててまで請け負わなければならない、建築業界の現状がとてつもなく悲しい。
もちろん、ごく一部の人たちだけであるとは信じているが。

以前書いた類似の記事を参考までに。

「目的と方法論 / 安全の死角」
「報復の形 / ある内部告発」


週間文春7/14号に出ていた記事。
「成り上がり」という形容詞の付く大物ロックミュージシャンが建てた、総工費15億円のスタジオがなんと「違法建築」だという、関係者の告発である。
記事によると、どうもその「違反」は「容積率オーバー」らしく、確認申請書類上は「ないはず」の部屋が、高い階高の一層分の空間に中層階を設ける形で造られたということだ。
おまけに、本来は「共同住宅、飲食店、スタジオ」として申請している建物の用途も、実際は全く住宅として使っていないので、「用途違反」もしていると言う。
区役所の竣工検査を受けた際には、図面にない部屋は開口部をコンクリートで埋めて、仕上げまでして「壁」に見せ、住居部分には「住宅」であることを示すために、使わない浴室やキッチンまで造ったとのこと。
こうした行為は言うまでもなく「検査済み証」を貰うための隠蔽工作であり、全くの確信犯である。

このような詳細まで知っている、というのは、施主側の人間以外では、この建物の建築に関わった者以外はあり得ない・・・と、思って読んでいたら、案の定、告発者はこの建物を担当した施工会社の人間、いわば「内部告発」だった。
しかも、何と、設計者(かなり著名な建築家)までもが実名で登場して、インタビューに答えてその事実を認めている。
あれま・・・良いのかな、こんなこと告発しちゃって・・・施工業者も設計者も「知っていて」工事を請けたのなら共犯だろうに・・・と、同じ世界に生きる私はちょっと鼻白んだが、実は、その動機に「なるほど、そうだったのか」と納得せざるを得ないものがあったのだ。
そのことは、後で書くことにして・・・まずは、建築基準法と違反行為について少し書くことにする。

誤解を恐れず書かせてもらうが、実のところ、この程度の「建築法違反」は珍しくない。
大都市、特に東京のように土地代が高いところでは、住居であれ商業施設であれ、少しでも床面積を多く取りたいのが施主の人情である。
しかし、土地が狭くて建物が密集している大都市ゆえに、その建物のキャパや高さ、使用目的など、あらかじめ制限することを目的として定められた法律(建築基準法)は厳しい。
そこで、どうしても法で決められたキャパ以上の空間が欲しい時、竣工検査というのは受けなくても良い場合があるので(住宅金融公庫など公的融資を受けない時)、中には「確認申請が下りてしまえばこっちのもの」と、申請図面には存在しない部屋を造ってしまったり、又、竣工検査を受ける場合でも、検査後に増・改築したり、という「違反」が行われているのである。
ただ、「違反の重さ」で言えば、容積率違反はさほど重い罪ではない(らしい)。
即座に「建物使用禁止」などの罰則が適用されるのは、まず、住宅しか建ててはいけないところに商業施設を造ったり、学校のある場所にパチンコ屋や風俗店を造ったり、という「用途地域違反」、次に敷地に対する建築面積の割合を定められた「建ぺい率」の違反、そして建物の高さに関する「高さ制限」や「斜線制限」の違反である。
容積率に関しては、建物の外観さえ法を守っていれば、内部のことは外からは分かりづらいので、個人住宅のようにその建物の住人しか入らない施設の場合には、尚更「見つかりづらい」、イコール「やりやすい」違反とも言えるのである。

ここで、一般の人には疑問が沸くだろう・・・そうした違反の「主犯」は一体誰なのだろう?・・・すなわち、もし、ばれた場合に怒られるのは誰なのか、と。
まず、真っ先に頭に浮かぶのは、当然、確認申請書類を作成し設計責任者として名を記す「設計者(建築士)」である。
しかし、実はそうではない。
一番の「責任を負うべき」者は、施主本人=建物のオーナーなのだ。
何故なら、この「確認申請」という書類は、全て施主の名前で提出される。
設計を担当する建築士はもちろん名を連ねなければいけないし、設計図面もその建築士によるものでなければならないが、この場合の建築士の立場というのは・・・そう、例えるならば、会社の会計や税務に関わる「会計士(税理士)」のようなもの、と言ったらよいだろうか。
つまり、図面も含めたその書類一式が、役所が望む書式や内容を満たしていること、そして、その建築物が、用途や規模、構造、防災設備など全ての部分において「建築基準法を満たした」ものである、ということの証明をする者・・・いわば、監督者のような立場なのである。
なので、もし、違反建築をした場合(あるいは、消防法違反などの場合も)に、役所から叱責を受け、改正命令を出されたり、罰則を与えられるのは、建築士ではなく施主ということになる。

では、建築士は、違反をしても全くのお咎めなしなのか?・・・と言うと、そうでもない。
もちろん、国家資格である建築士という免許を与えられている、ということは、「私は建築基準法を守って設計をします」という誓いを立てていることでもあるので、時にはその資格を剥奪されることもある(あまりにひどい違反の場合は、即刻「レッドカード」ということも)。
しかし、軽微な違反の場合、特に「初犯」の場合などは、ほとんど「指導」のみのケースが多いと聞く。
取りあえず「違反者」として「ブラックリスト」に名前が記されるらしいが、サッカーのイエローカードのように、それが繰り返されて積み重なった時に「悪質な常習者」として「レッドカード」になるらしい・・・というのは、以前、知り合いの建築家に聞いた話なので信憑性はないが。

税法の場合、脱税が発覚すると、逮捕・実刑を受けるのは脱税者本人(もしくは法人責任者)であるのは同じだが、もしその行為に会計士が関与していた場合、その罪は重く、牢屋に入らないまでも、多分会計士の資格を剥奪されてしまうだろう。
しかし、上記したように建築基準法の場合、施主にも逮捕までの罰則はないし、設計者にも「たった一度の違反でキャリアを棒に振る」ような厳しい罰則がない・・・そのことが、違反を横行させている背景にあるのは確かである。
もし、一度でも「違反」が発覚したら、即「資格剥奪」という法律があれば、きっと多くの建築士が、いくら施主から「ちょっとくらい融通してよ」と言われても、「いえ、でしたらこの仕事をお断りします」と答えることだろう。
犯罪であることは事実なのだが、「罰則のない犯罪」は罪の重さを認識しづらいのだ。

で、話は戻るが、この文春の記事に登場していた建築士もこのようにコメントしている。
「(中略)基本的には、施主の『強い要望』の中でやりました。『こうなったらいいね』とか『使える空間があったら使いたいな』とか。そういう強い要望に私たちは協力してしまったということですね」
ところが、施主(そのミュージシャンの所属する会社の社長)の言い分は食い違う。
あくまでも、「設計者が『大丈夫です』と請け負ったから、任せた」というのだ。
それに対して、又、設計者の反論があり、「何度も容積率オーバーについて説明をしたが、『どうしてもやりたい』と言われ、仕方なくやった」と・・・どうも、泥試合の様相を呈してきた。
以上のやり取りを読んだだけでも分かるように、施主側には「自分たちがその建築に関わる法律を守るべき責任者である」という意識が欠落しているし、設計者側はそういう意識の上に「施主からの要望でやっただけのこと」と第三者的立場を強調するのみ・・・どちらにも、社会的責任感が皆無なことは明白である。

さて、長々と書いたが、本題に戻る。
今回のこの「内部告発」、15億円もの大きな仕事をくれた「お客様」を告発するという、なんとも「恩を仇で返す」ような仕打ちである。
記事を読み進むうちに、何故、そのような行動に出たのかが分かってきた。
施主であるこのミュージシャン、とてつもなくわがままで、又、このスタジオに対する思い入れが強いのか、工事中に何度も何度も変更をしたらしい。
時には、自分が「これを使ってくれ」と言って指定したタイルを貼り終わったばかりの現場へ来て、「誰がこんなダサいタイルを貼れって言ったんだ!」と怒鳴り散らして、全く違うタイルに貼り替えさせたこともあったそうだ。
この告発者いわく、「変更箇所は百や二百では足りません」とのこと・・・
一度造ったところを壊し、又、違う材料や形で造り直し・・・当然、そこには追加費用が発生する。
二百以上もそうしたことを繰り返したのなら、おそらくその金額も千万単位になったに違いない。
ところが、工事契約者であるそのミュージシャンの所属会社にその請求をすると、「一銭も払わない」との返事。
実は、この告発者は、元請けのゼネコンの下請けで工事を請け負った会社の人なのだが、元請けの会社も「施主から貰えないので払えない」の一点張りだそうだ。
なるほど・・・そうした背景があったのか・・・
要するに、今回の告発は、あまりにもひどい施主と元請けの対応に困り果て、怒り心頭に発した下請け業者の、「報復」だったというわけだ。

施主の皆様、汝、払うべきお金をケチるなかれ。
そして、後ろめたいことはするなかれ・・・


突然ですが、皆さん、iPod、持ってますか?
私は持っていません(って、えらそうに言うことでもありませんが・・・・)。
しかし、うちのスタッフ2人は大変な音楽好きで、最新のものではありませんが、すでにiPod買い換え経験者。
今ではiPod miniやiPod shuffleなどの安価な機種も出て、銀座のAPPLE直営店でさえ、新機種発売日には即時に品切れ状態になるほどの人気だそうです。

さて、今回のお題は、このiPodにまつわる“裏”話・・・と言っても、決して何か秘密めいた暴露話などではなく、読んで字の如く、純粋に“裏”の話です。
そう・・・iPodをお持ちの方でしたら、例え無意識にでも、その裏面を見たことがあるはずですよね?
もちろん、表のデザインも格好良いですけど、あのピカピカに磨き上げられたアルミの鏡面仕上げ・・・綺麗ですよね。
本当の鏡のようにものを映し出し、全く歪みひとつないその仕上げも素晴らしいですけど、四隅の角が緩やかな三次曲面で構成され、自然にプラスティックの本体と合体しているそのフォルム・・・元々のデザインが優れているのはもちろんですが“手のひらに収まったときの触感”にこだわった、何とも人間的なディテールだと思います。
・・・実はこのiPodの裏面のパネル、何と日本の磨き加工会社が作っているんですって!
ご存じでしたか?

私がそれを知ったのは、2/22に放映された、テレビ東京の”WBS”という夜のニュース番組です。
主人公は、新潟県燕市の磨き職人たち。
この、世界中で1千万台も売れているというAPPLE社のiPodシリーズ、その重要なパーツの生産を燕市の伝統的な磨き加工技術が支えているという事実もさることながら、なんと、ひとつひとつ全て職人さんの手仕事で磨いているというのですから驚きです。
「磨きって言うのは、どこまでやれば終わりか、っていう決まりがないのね。もちろん、材料によっても物によっても違うけど、それを決めるのは職人の勘だけ・・・だから、熟練の技が必要なんです」・・・と、淡々と語るある職人さんの言葉が胸に残りました。

燕市(燕三条と2つの市を繋げて言われる場合もあります)と言えば、江戸時代から今日まで、ずっと“金物加工”で有名な地域・・・燕市がそうした技術に特化したのは、江戸時代の和釘生産に端を発します。
その後、和釘を初めとする和製金属生産を経て、大正時代に洋食器産地へと業種を転換し、アメリカへの輸出などで経済的に大きく成長するものの、輸出規制で打撃を受けたり、オイルショックや、香港、台湾、韓国などのNIESと呼ばれる新たなライバルの出現など、燕市にとって苦しい時期が続きました(以上、燕商工会議所内HPより)。
その素晴らしい磨きの技術は世界的に高く評価され、特に洋食器の世界ではトップレベルであるにもかかわらず、昔からの職人気質が邪魔をして、最近ではなかなかその技術を生かす新しい仕事を得る手段が見つけられませんでした。
すなわち、技術力はあるのに、営業力が遅れていたのです。

そこで、彼らが取った対策というのは、まず、今までそれぞれが独自に仕事を受注し、いわばライバルとして競い合っていた市内の加工工場が一致団結して組合のような組織を作り、営業窓口を一本化して効率を図ると同時に、受注した仕事の内容に合わせて各工場に仕事を割り当てる、というシステムを作りました・・・その名前“磨き屋シンジケート”。
iPodのことを取り上げていたWBSでは、どちらかというとその”磨き屋シンジケート”のシステムがテーマでした。

彼らは、まず、シンジケートの営業窓口の担当者を選任します。
そして工場の職人さん達は、受注した仕事と新しい技術の開発(例えばマグネシウムなど、今まで磨くのが難しいと言われてきた金属を綺麗に磨く技術)に専念し、発注先との打ち合わせや、サンプルを持って企業に売り込みに行くのはその営業担当者・・・と言うように役割を分けました。
番組では、この、まだ30代半ばと思われる営業担当の男性に密着取材していましたが、この男性の仕事量と来たら、スーツ姿で大企業に売り込みに行き、仕事が取れると各工場を回って、自分の父親のような年代の職人さん達に図面を広げて細かく説明・・・いやはや、たった一人で獅子奮迅の働きぶりでした。
iPodの裏のパネルについては、いつ、どのような形で依頼が来たのか詳しく語られていませんでしたが、私の想像では、あのフォルムと磨きの精度・・・多分、APPLE社がどうしても到達したかった水準を満たせるのが、燕市の磨き技術しかなかった、ということではないかと思います。

実は、この燕市の磨き職人さん達、私は以前(昨年12月頃)他の番組で目にしていました。
それは、NHKの“ご近所の底力”という番組で、問題を抱えた“お困りご近所さん”の相談事に、皆で解決の妙案(アイディア)を出し合う、という内容です。
一番多い相談事は、当然ながら地域社会・町内会的な悩み事・・・例えば、壁の落書きを減らしたい、カラスの撃退法、鳩の糞害問題、放置自転車問題などですが、時には痴呆予防や年金などといった、誰でもが抱える個人的な相談事も取り上げています。
番組の構成としては、毎週レギュラーで3人の“解決人”が登場し、相談事に合わせた解決策を“妙案”と称して、日本全国の町村単位の自治体や研究グループなどの、すでに同様の悩みを解決した実践事例やアイディアを、裏付けのあるデータを元に提案します。
すなわち、ひとつの困り事に対してつねに3つの案が提示されるという仕組みで、相談者は最後にそのアイディアの中から採用したいものを選びます(ひとつだけでも良いし、3つ全部採用しても全部不採用でも構わない)。

その“お困りご近所さん”として、燕市の磨き職人さん達が出演し“町工場を元気にしたい”というタイトルで“折角良い技術を持っているのに、その売り込み方や営業の仕方が分からないのでその方法を教えて欲しい”という相談内容でした。
そしてこの時、この燕市の相談に対して出された3つの“妙案”は、
1.営業力を磨け
2.交渉力を磨け
3.宣伝力を磨け
というもの。
その内容を、以下に書きます(NHKのHPから一部引用させて頂きました)。

まず、1の“営業力を磨け”という妙案は、大阪市で実際に行われている画期的な企業支援策を紹介しました。
およそ1万の下請け工場がある大阪市では、そうした下請け工場に不足している営業力を補うために、経験や人脈が豊富で仕事をまとめる力のある、大企業OBに助っ人になってもらうことにしたのです。
それは、いわば町工場に新たな取引先を紹介する“仲人さん”・・・すでに定年を迎えた方々ですが、家電メーカー・化学メーカー・商社など、さまざまな業種でキャリアを積んできたベテランぞろいです。
町工場の持つ高い技術力が役に立つところはどこか・・・今までの経験と豊富な知識を元に、月1回の全体会議で知恵を出し合い、例えばわずか1ミクロンの誤差もない精度の高い部品があるとすれば、これなら違う分野のこういう製品に生かせるはず、と新たな取引先を見つけます。
長年ビデオ部品の下請けだった町工場が、印刷機械や半導体など、新分野の開拓に成功する事例も出てきました。

大阪市では、この“仲人さんシステム”を導入して、3年で13億円もの新たなビジネスチャンスを作り出すことに成功したそうです。
要するに、今までの町工場というのは、仕事の依頼があった時に注文された部品を作るだけ、という、メーカーお抱えの“下請け”体質が定着し、中国などの安い工場へ元請けのメーカーから仕事が流れれば、当然受注量は減ってしまう。
いわば“待ちの体制”で手をこまねいているだけでは、折角の高い技術を生かす機会も得られない、ならば、こちらから売り込みに行くことで新しいチャンスを見つける・・・その為に“何を、どこに、どのように”売り込みに行ったらいいのか、という道筋を、メーカー側の人間として何十年も働いてきたその道のプロ達にアドバイスして貰い、実際に売り込みにも行って貰おう、というアイディアです。
番組の中のある会議室で、片側に背広姿のいかにもサラリーマンといったおじさま達が顔を揃え、片側には作業服姿の職人さん達、ひとつの小さな部品を中央にしてあれやこれやと真剣に話し合っている様子が印象的でした。

2の“交渉力を磨け”という妙案は、ある部品加工会社の社長さんが自分の経験の中から独自に掴んだ交渉術を紹介。
商談の始め方(いきなり本題に入らず、世間話をして相手の興味を見極めるなど)や、価格交渉の極意(先に自分から値段を言わずに、相手が満足する値段を聞き出すなど)を披露しました。
“自分たちの商品”として、技術の結晶した“現物”があることで“見て貰えば分かる”と、ともすれば言葉を出し惜しみしてしまう工場の社長達に、そうではなくて、うち解けることで相手の気持ちを読んだり、こちらの希望を伝えたりするコミュニケーションが大切なのだ、ということを、名刺の差し出し方から教えてくれました。

3の“宣伝力を磨け”という妙案は、窮極のアピール法で、世界中からお客を呼ぶのに成功した、ユニークな町工場の社長を紹介しました。
この会社が、宣伝のために行ったとんでもない方法は、主にふたつ。
まずひとつ目は、数年前に、全く商品化の目途もないのに、2億円をかけて10万分の1グラムという世界最小(当時)の歯車を作ったこと・・・しかしこの歯車、実はまだ1個も売れていません。
あまりに小さすぎて、使い道がないからです。
ところが、この歯車をプラスチックの国際見本市に出展したところ“こんなものが作れるなら”とその技術力に驚いた世界の名だたる時計メーカーなどから、次々と商談が舞い込んだそうです。
「世界最小の売れない歯車」は、実はしたたかな国際戦略だったという事案です。
ふたつ目は、この社長、「町工場はとにかく目立て」がモットー・・・目立つために、なんと、請求書や名刺、それに会社の建物や工場内の機械、作業服までも真っ黄色にしてしまったのです。
目立てば人の興味と関心を惹く・・・“町工場は自分でお客を探そうとするより、お客から来てもらう方がはるかに効率的だ”という経営哲学には、なるほどと唸らされました。
ちなみに、その黄色い名刺には、しっかり“世界一小さい歯車”が貼り付けてあるのです(笑)。

2と3については、まず自分自身がどのような姿勢で仕事を増やす努力をするか、という、基本的にはどんな小さな会社の経営者でも考えなければならない営業戦略のポイントと言えるでしょう。
そうしたことももちろん重要ではありますが、私が一番良いと思ったのは、1の“仲人さん”案です。
大なり小なり、企業の第一戦でプロジェクトや商品を企画し、宣伝や営業活動で商談をまとめてモノを売り買いした長年の実績・・・その頭と体に蓄積された豊富な経験と知恵は、素晴らしいデータベースでもあると同時に、需要と供給、企業と人、モノとモノ、ソフトとハードを結びつけるノウハウの宝庫でもあります。
素晴らしい技術を持ちながら、それを生かす場所を見いだせない町工場にとっては、新たなビジネスの場を創造する重要な橋渡し役として・・・しかも、それが1人ではなく何十人も、となれば、まさしく鬼に金棒ではないでしょうか。
一方“仲人さん”の方にとっても、今や人生80年の時代を迎え、まだまだ頭も体も気力も十分元気な60〜70代の方達、例え金銭的には困っていなくても、定年後の時間をどう生きるかということは人生の大きなテーマでもあります。
聞くところによると、大阪市の“仲人さん”達は、ほとんど手弁当のボランティアだそうです。
そこには、純粋に“自分たちの存在が町工場の役に立てれば”というモチベーションしかないのでしょう。
彼らにとって、同じ“役に立つ”のであっても、企業の先鋒として会社の利益のために奔走していた時とは違う、充実感がそこにはあるのではないでしょうか。
この番組を見ながら、私はつくづく思いました・・・ああ、我々デザイナーにも“仲人さん”集団がいてくれたらいいのになぁ・・・と。

話は戻りますが、以前もこの空・間・塾で触れたことがありますけれど、iPodの裏面パネルに限らず、日本の高い加工技術は世界中の様々な場所(もの)で重要な役割を担っています。
ロケットや飛行機、新幹線などの先端部分の流線型を作り出す“絞り加工”の技術、1/1000ミクロンの歪みもない平らなレンズを作る“磨き”技術、軽くて小さな携帯家電に欠かせないバッテリーケースや放熱ファンを作る加工技術、精巧で複雑な部品を作る為の元となる金型技術、水族館の巨大な水圧を支え尚かつ全く歪みのない透明アクリルをつくる技術、などなど・・・
現代社会に暮らす我々に多大なる恩恵をもたらす、そうした先進技術を担っている人たちが、実は、大阪市や燕市の小さな町工場で、毎日毎日機械の前に立って黙々と作業をしている職人さん達なのだ、ということに、改めて感動を覚えると共に少し複雑な思いにもとらわれます。

燕市の“お困りご近所さん”が、結局どの案を採用したのかはちょっと忘れてしまいました・・・3つの案全部だったかもしれません。
しかし、番組を見ていて思ったのは、どこの世界でも、どんなに素晴らしい技術を持ち、どんなに良い物を作っていても、それだけでは“物は売れない”ということ・・・大げさな宣伝は感心しませんが、何事もまず“知って貰うこと”が大切なのでしょう。
今は、インターネットのお陰で、時差も国境もない情報発信が出来る時代となりましたが、それはあくまでも受け手を選ばない垂れ流しの情報・・・正確な情報を正しい相手に伝えるためには、いつの時代でも“人”が一番なのかもしれません。
この空・間・塾の“プロジェクトX”のテーマの中でも触れましたが、ソニーがアメリカに進出する際、全く誰も知らない小さな日本のメーカーの製品を電気店に置いて貰うために、営業マンがどれだけ苦労したか、という話がありました。
彼らがいなければ、もしかすると、今の世界企業としてのソニーは存在しなかったかもしれません。
いずれにせよ、燕市に限らず、小さな町工場で延々と受け継がれてきたこのような日本独自の伝統技術が、決して衰退することなく、新しいテクノロジーの世界で活躍し続けてくれることを切に願いますし、出来れば市や県単位の政策ではなく、国を挙げてその宣伝に努めて貰いたいと思います。
そしてもちろん、我々物創りに関わっている人間が、率先して“伝えて”行かなければならないことのひとつでしょう。

ところで、燕市の磨き職人さん達は、iPodが一体何に使う機械なのか全く分からないそうです・・・。
でも、お小遣いを貯めてiPodを買った孫に“その後ろのパネルはおじいちゃんが磨いたんだよ”と言ったら、孫はきっと、そのことを大層自慢に思うのではないでしょうか。
私も、ひとりの日本人として、とても誇りに思います。



先日、久しぶりに大変不快な思いをすることがありました。
色々と考えることもありましたので、書いておこうと思います。

ご承知のように、私は猫を複数飼っておりますので、毎日の餌の消費量も半端ではありません。
その都度コンビニなどで買っていたらすぐになくなってしまいますし、値段も高いので、いつも“コ○マ”というペット商品のお店の通販でケース買いをしています。
ただ、この“コ○マ”、インターネットによるサイトでの通販とカタログから注文する電話での通販とでは、扱っている商品が違うので、私はいつも電話で注文していました。
金額にすると大体1ヶ月に3〜6万円くらい、1年だと60万円くらいになりますので、自分で言うのも何ですが、結構“良いお客様”だと思います。

我が家はマンションの3階にあり、エレベーターが付いていません。
ですので、このように缶詰などをまとめて通販で買って配達して貰う際、いつも宅配便(佐○急便)のお兄さんが、何箱ものメチャクチャ重い段ボールをヒーヒー言いながら持って上がってくるのを見ると(特に夏などは汗だくになり)申し訳ない思いで一杯でした(時には、恨めしそうな目で睨まれることもあり)。
特にこのコ○マ、7,000円以上の買い物は配送料をタダにしてくれるのですが、その為に極力荷物の数を減らそうとするのか、1梱包の段ボールが到底私などには持てないほど大きくて重いのです。
1年以上前のある日、私はその佐○急便さんの苦労を見かねて、コ○マに電話して言ってみました・・・“荷物をもう少し、小分けにして軽くしては貰えないだろうか”と。
すると、その時に電話に出た女性は、そんなことは当たり前、というような涼しい声で“30キロ以内であれば1個の荷物でまとめることになっております。荷造りする際、ちゃんと重量を量っておりますので、全然問題はありません”と言いました。
すなわち、佐○急便との取り決めでそのようなルールになっており、それを守って梱包しているので、全く(例え、実際に運搬する人が苦労しようがしまいが)コ○マには関係ない話だということらしいのですが・・・と言うことは、私が絶対に持ち上げることが出来ないほどこんなに“大きくて重い”段ボール箱も、実際には30キロ未満の重量である、ということなのでしょう。
そんな“取り決め”があることを初めて知った私は“そうですか”と言って、電話を切ったのでした。
それでも何となく割り切れない思いを残しながら、それからも月に一度くらいの頻度でコ○マに注文するたび、ピンポンとドアフォンが鳴ってドアを開けると、肩を大きく上下に揺らし、汗のしたたる顔を真っ赤にした、ストライプ模様のシャツ姿のお兄さんの姿を見てきたわけですが・・・

実は、数週間前のこと、1ヶ月ぐらい前に注文してストックしてあった缶詰の段ボールケースを開けたところ、運搬中に落としてぶつけたのか、下の方の缶が数個破損して中身が腐って悪臭を放っていた、ということがありました。
別に缶詰数個のことで取り替えだの返金だのと言うつもりもないので、それは全部処分しただけですが、次回コ○マに注文する際にちょっとそのことを注意しておこうと思いました。
先日、そろそろ缶詰が残り少なくなってきたので、又、コ○マに電話をし、いつものように注文をした後、付け加えるようにその話をしました。
別に私は誰にどうと怒っているわけでもありませんでしたので、ただ、こういうことがありましたよ、と言えば、今後、何らかの注意を払ってくれるに違いない、という軽い気持ちからでした。

“缶詰が運搬中に破損したのか、缶が割れて中身が腐ってしまっていた。それは配送の問題でコ○マさんの落ち度ではないと思うけれど、一つの荷物があまりにも大きくて重いこと、そしてうちが階段で3階まで上がらなくてはならない場所なので、佐○急便さんも運搬に苦労していて、その状況の中で止むなくぶつけてしまったのではないか。30キロまでは1つのパッキンで良いとの話は聞いているが、こうした事故も現に発生しているのだから、その点を何とか考えてみてはどうか・・・”
と、大体そのような内容をごく普通にお話ししたところ、その電話に出た熊○さんという女性、私の話がまだ終わらないうちに、まくし立て始めました。
“それはあくまでも配送業者の責任です。30キロ以内でしたら1つのパッキンにすることは決められていることですし、配送中の事故について私どもは一切関知しません。お客様の方でもし返金等のご要望があるのでしたら、到着後2週間以内に申し出て頂かないとならないということは、書類にもうたってあるはずです”と、まるでロボットのような全く何の感情も感じられない言い方でした。

私は一瞬うろたえたものの、あまりにも杓子定規なその言い方に、ブチッと切れてしまいました。
“いえ、ですからね、私は別にそのほんの数個の缶詰をどうしろ、とか、言っているわけではないんです。2週間過ぎているとかいないとか、そんなこと知りませんよ。大体、ケースの底の方の缶詰まで全部、チェックなんてするわけないじゃないですか。ただ、こういうことがあったので、ご報告するとしたら、商品を売った貴方の会社に言うしかないわけでしょう? そうやってルール、ルール、って何にも落ち度がないみたいに言うけれど、ルールを守っていれば絶対に安全で何も起こらない、っていうことじゃないでしょう。実際、こういうことが起こった原因が、梱包の仕方にもあるんじゃないか、っていうことを考えたらどうか、って言ってるの!”と、私も負けずに言い返してしまいました。

すると、彼女はあくまでも冷静・冷徹な声で“おっしゃっていることがよく分かりません。一体、何をお望みなのですか”・・・
“だからね、どうして欲しい、とかいうことじゃないんです! 貴方は売る側、私はお金を払って買う客でしょう。貴方の会社と配送会社の取り決めなんかどうでも良いの! どうして一言、それは申し訳ありませんでした、って言えないのよ。割れた缶詰を届けられたのはこっちなのよ。以後、気を付けます、ってそれだけで済むことでしょう。”
“・・・はあ、申し訳ありません・・・あ、ちょっとお待ち下さい。”
と、ここへ来てようやく“謝罪”の言葉を口にしたものの、いきなり電話を保留にされ、私は沸々とたぎらせた怒りの腰を折られた格好で、1分ほど待たされました。

すると今度は違う女性が出て、すました調子で“お電話代わりました”とだけ言って黙っています。
“・・・だから、何?”と、ぶっきらぼうに言う私。
“いえ、ご用件は何でしょうか?”
“ご用件は、全部、前の女性に話しました。なんで貴方が出てきたの?”
“私が代わりにご注文を承ろうと思いまして・・・”
“ご注文はしました! 今はクレーム言ってたところ! わざわざ電話代わって出るなら、話は前の女性に聞けばいいでしょう! その上で上司が出るなら話は分かるけど、何のために代わったのか分からない人が出たって仕方ないでしょう”
“上司は今、留守にしておりまして・・・なんでしょうか、配送料の件ですか?”
“もう良いです! あのね、今頼んだもの、全部キャンセルして下さい!”
“かしこまりました〜”(何とも場違いなさわやかな感じ)

と、こんなことがあって・・・私は久しぶりに怒りに震えてしまいました(言っておきますけど、初めから怒っていたわけではありませんからね)。
実は、このコ○マ、メチャクチャ安くて、大量買いの私は大層助かっていたのですが・・・啖呵を切ってしまった以上、いくら安かろうが、もう二度と注文はしません。
しかし・・・大変なのは、向こうの方じゃないでしょうか。
だって、少なくとも年に60万以上買っているお得意様を、このようなたった1人の電話オペレーターの対応によって失ってしまったのですから・・・
まあ、100億以上の売り上げがある大企業ですから、私のような“面倒な”客はいらないのかもしれませんけど。

電話を切った後に私が思ったのは、きっと、電話に出た最初の女性も後で代わった女性も、なぜ私が怒ったのか全く理由が分からず、頭の中は“?”マークで一杯 “変な人だったね”と話してるんじゃないか、ということ・・・もちろん、自分たちが年間60万の売り上げをたった今失った、とは夢にも思っていないでしょう(気が付いたとしても、気にしないでしょう)。
そして、なんだか一抹の寂しさと共に感じたのは“商売って、こういうものだったっけ?”ということです。
昔は“お客様は神様”、まず“申し訳ありません”と頭を下げろ、って教えられなかったかしら・・・

今回はたまたま電話だったので、こうした“喧嘩”まがいのことに発展してしまいました。
しかし、今や電話で注文するのも稀なくらいに、なんでもインターネットで買うことが出来ます。
つつがなく無事商品が届けばそれで終わりですが、しかし、時にはサイトに電話番号すら書いてなくて、一体どこに問い合わせればよいのかしら、と思ってしまうこともあります。
ただ、ネットの場合は少なくともメールアドレスは書いてありますし、良心的なところはこちらがメールを出すとすぐに返事をくれます。
逆に“顔が見えない”からこそ、そのような迅速、かつ丁寧な対応が必要なのでしょう。
要は、ビジネスの形態がそうして時代と共に変わっても、ちゃんとお客様を大事にしているところは対応もきちんとしているし、電話だろうが実際のお店だろうが、販売担当者の教育が出来ていないところは、木で鼻を括ったような対応しかできない・・・そういうことなんだろうと思います。

ちなみに、このコ○マ、配送予定も全くアバウトで、土・日が入らなければ“本日より5日以内にお届けします”、土・日が入ると“本日より7日以内に・・・”と言うだけ。
実際は大体3日ほどで届くのですが、そうした“配送日の幅”があると、例えば留守中に来たら困るし(先に書いたように大変重いので、留守の場合はいつも玄関先に置いておいてもらうようにしているのですが、雨が降ったりしたら大変なのです)、餌が残り少なくなっているときには、いつまで持つかと気が気ではありません。
要するに、このコ○マ、先の女性が言っていた”返品の際の期限”と言い、この”曖昧な配送日”と言い、何事にも自分たちに火の粉が降りかからないように予防措置だけは行き届いているくせに、肝心の顧客に対する細やかな気配りが全く出来ない、というか、それでも成り立ってしまう商売をずっとしてきたのでしょうね。
だから当然のように、電話に出るオペレーターも、そういう文脈での話し方しか出来ないのだと思います。

話は変わりますが、今、プロ野球界が合併・リーグ再編問題、そして新規参入球団の問題で揺れています。
私はあまり野球を観ないので1リーグでも2リーグでも良いのですが、先に“辞任”というカーテンの陰に隠れて、それでも隙間からちらちら目を光らせている大新聞社の社長の“たかが選手が・・・”発言が、選手達やファンの気持ちを大きく発憤させたことは事実です。
本人は“しまった”と後悔しているでしょうが、いみじくもこの発言こそにオーナー達の野球(球団)に対する本音が表れている、と思うのは、私だけではないでしょう。
更に言うならば、その言葉の後に“たかがファンが・・・”と言ったっておかしくない・・・そこには、選手のみならず、誰のお陰で自分たちが球団の利益を得ているのか、という意識が全く感じられないのです。
その結果として、当然ながらその発言主の新聞の購読契約が激減しているそうですし、野球中継の視聴率も落ち込んでいるようです。
又、例のNHKの不祥事の後、視聴料を払わない、という人が全国で何万人にも上っている、というニュースもありました。

コ○マさん、確かに何事もなく注文だけ受けている分には、お宅の電話オペレーターはきちんと“マニュアル通り”対応できていますし、問題ありませんよ。
が、しかし、自分の受けた1本の電話が客の印象を良くも悪くもし、ひいては会社の印象も左右する・・・そんな単純なことすら分かっていないようですね。
でも・・・彼女たちには無理なことかもしれません。
だって、マニュアルにない対応を求められると“何をおっしゃっているのかわかりません”と言うしかないのですから・・・
熊○さんとその後で電話に出た女性、私には“たかが配送業者が・・・”“たかがクレーマーが(私のことね)・・・”と言っているのと同じように感じられました。

私が言ったことだって、別に“何かの見返り”を求めているわけではありません。
もし、社内会議とか上司への業務報告の際に“こういうクレームがありました”と話題に出してくれるだけでも、1つの問題提起になるのではないか、と思ってしたことです。
もし、配送業者がこのような“荒っぽい”配送しかできないのだったら、業者を変えるという選択だって、アリでしょう。
確かに自分は電話に出て注文を取るだけで仕事は終わりかもしれませんが、注文を受けた商品を揃えて梱包する人たち、更に真夏の40度近い気温の中、30キロもの荷物をいくつも抱えて階段を上って、届けている人たちがいるのです・・・そして、そうして商品が届かなければ成り立たないのが、あなた方がお給料を貰っている会社のビジネスでしょう。
もう少し、自分の仕事に関わる自分以外の人たちのことも考えて、というか“想像”して欲しいと思います。
もっと“人間力教育”をして下さい(この“人間力教育”というのは、先のサッカーオリンピック代表監督だった山本昌邦さんが、選手達に教えるものとして“技術”よりもひとりの人間としての力----窮地に陥ったときの咄嗟の判断力や仲間を思いやる気持----を育てたい、それを“人間力”と呼んでいる、と言ったものです)。

ちなみに、電話を切ったすぐあと、私は“さて、どこに缶詰を頼もうか・・・”と途方に暮れ、取りあえず新規参入球団設立で今注目を集めている“○天”のサイトへアクセスしてみました。
早速ペットフードのお店を検索してみると・・・おお、なんだ、コ○マより安いところがあるではないか!
こっちにしよ、これから(ルンルン)・・・災い転じて福となす、って言いませんかね、こういうの。


[ 04.10.01 その後・・・]

この“コ○マ”問題、後日談を書いておこうと思います。
昨日(9/29)、ご承知のように台風21号の影響で、東京も夕方から激しい雨と風に見舞われていました。
遅くなると雨がひどくなりそうだったので、私も事務所のスタッフも早めに帰宅しました。
自宅に着いて夜7時半頃だったでしょうか、玄関のインターフォンがピンポンと鳴りましたので、何かと思ってドアを開けると・・・そこには、土砂降りの雨の中、ビショビショになりながら段ボール3箱を肩に担いだ“佐○急便”のお兄さん・・・
“どこからの荷物?”と訊くと、はぁはぁ息を切らせながら“コ○マさんからです”とのこと・・・
嫌な予感が当たった・・・と思いながら“ああ、それね、ごめんねぇ、キャンセルしたの。だから、悪いんだけど持って帰ってくれる?”と言うと、お兄さんは“えぇー、そうなんですかぁ・・・はぁ、分かりました・・・”と、がっくりした様子で引き上げていきました。
・・・あいつ(例のコ○マの電話オペレーターね)、キャンセルするって言ったのに、忘れたんだ、きっと・・・とひとり胸の中で毒づき、又してもそのしわ寄せを、無駄に終わった重労働(しかもびしょ濡れ付き)で被ることになった“佐○急便”のお兄さんに心から同情しながら、私はおもむろに受話器を取り上げました。

例の通販専用の番号に電話をすると、なんと、電話に出たのは先日の“熊○さん”。
私はなるべく感情を押し殺して、用件を伝えました。
まず名前を名乗り“先日キャンセルした商品が、今届いたんですけど”と言うと、熊○さんは又しても冷静・冷徹な声で“ご用件の内容がよく分かりませんので、お調べ致します。お電話番号をどうぞ”・・・この時気が付いたんですが、この“・・・よく分かりません”というフレーズ、この人の癖なのか、それともマニュアルに“そう答えよ”と書いてあるのか知りませんが、どうもこの言葉に“カチン”と来てしまうんですよね・・・まるで、こちらがちゃんと用件を伝えられる能力を有していないみたいに、すごく神経を逆なでする言い方だと思います。

ではあったのですが、私は極力声高にならないように電話番号を告げ、調べて貰いました。
すると“申し訳ありません、こちらの手違いで発送してしまったようです。佐○さんには受け取り拒否とおっしゃって下さい”・・・おお、今度は始めにちゃんと“申し訳ありません”と言えたじゃない、と感心したものの“受け取り拒否”?・・・この雨の中、ずぶ濡れになって“30キロ”もの荷物持って階段上がってきた人間に、たったその一言で終わりかい?・・・と、私は(心の中で)鼻白みました。
しかしまあ、今回は喧嘩はしたくなかったので“はい、今、そう言って帰って頂きました。ところで、支払いの方はちゃんと取り消しして頂いているのでしょうね(カード決済なので)”と訊くと“少々お待ち下さい・・・(数十秒経過)ただ今、取り消しの処理を致しました”とのこと(それぐらい、先に調べろよ・・・と心の中でツッコミ)。
もう一度、支払いが発生しない旨念を押してから、よけいなことは一切言わずに電話を切りましたが・・・

しかし・・・驚いたのは、ほんの数日前のあのやり取りをまるで何もなかったように、受け答えする熊○さんの相変わらず機械のような態度・・・私だったら、あれだけ電話で“理不尽に”怒鳴られたら、その相手の名前も声も、絶対覚えているけどなぁ・・・多分、毎日毎日、何十本という電話を受け(その中に私のようなクレームがどれだけあるか分かりませんが)、いちいちその内容まで気にしてなんかいられないほど忙しいのでしょうね。
何があっても常に同じ対応が出来る人じゃないと、こうした仕事は勤まらないのかもしれません・・・そうした意味で、変な感心をしてしまった私でした。



<前編より続く>

さて、片や自転車ロードレースの方ですが、こちらにも数は少ないものの、並み居るヨーロッパの選手達に混じって活躍していた選手がいます(現在もいますが、なかなか大きなレースのメンバーになるのは希なようです)。
私が知っている範囲で有名なのは、市川雅敏さんと今中大介さん(すでに二人とも現役引退)。
過酷さでは甲乙付けがたい世界3大ロードレースのうち(このレースに出るだけでも大変なことです)、市川さんはなんとジロ・デ・イタリア完走というキャリアの持ち主、今中さんも途中棄権ながらもツール・ド・フランスを走っています(市川さんの方が、年代・経歴的にも先輩のようです)。

この自転車ロードレースも、システムはほぼWGPと同じスポンサー+チーム単位の競技ですが、違うのは出場する選手が1チーム9人で構成されていて、あらかじめ決められているひとりのエース選手を優勝させるために、他の選手がアシストと呼ばれる役割をこなし、高度な戦略とチームプレイが要求されること。
市川・今中両選手はどちらも小柄な体格で、山岳コースを得意とした選手でした。
彼らも又、イタリアやベルギーといったヨーロッパのチームに単身で参加していましたので、もちろん、コミュニケーションはそうしたチームで主となる言語・・・やはり通訳など全く付かず、初めは何語も話せなかったそうです。
しかし現在、ツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリア、ヴェルタ・ア・エスパーニャの3大レースは、毎年スカパー!でオンエアされていて、彼らは交代でその解説を務め、その際にレース後の選手のインタビューなどを通訳もしてくれるのですが・・・感心するのは二人ともにその語学力!
今中さんはイタリア語を中心に4カ国語くらい、市川さんに至ってはなんと6カ国語も話せるのだそうです。
それはまず、それだけ自転車ロードレースという競技がヨーロッパ(アメリカのチームもありますが)のあらゆる国の選手やスポンサーが参加し、チームも選手もそれだけ多国籍であることの現れであり、なかでもあまり英語圏ではない国の選手が多いこと・・・・・当然、コミュニケーションを取るためには、彼らの言語を片っ端から覚えるしかなかったのでしょう。
この両名については、言葉に関しても驚きの一言ですが、それこそ日本ではオートバイ競技よりも尚マイナースポーツ、かつ、ほとんど情報もない時代に、いくら世界最高の舞台とはいえ、ヨーロッパで100年もの歴史のある世界に単身で乗り込んでいくその勇気に、心から感心してしまいます。

そうそう、忘れてはならないのが、選手ではないのですけれど、今現在FASSA BORTOLOというイタリアのチームに所属する二人の日本人。
一人は、メカニックを担当している永井孝樹さん、そしてもう一人はマッサー(フィジカルトレーナーのような仕事)として頑張っている中野喜文さんです。
どちらも、このチームにとっては欠かせない存在であり、選手皆から絶大なる信頼と尊敬を受けています。
特に中野さんは、鍼治療や指圧などの東洋医学をこの異文化のスポーツの世界に取り入れました。
当初は胡散臭く思われて敬遠されていましたが、今ではほとんどの選手がその素晴らしい効果を認め、長いレース中のコンディション作りに欠かせない中野さんの“鍼治療”を率先して受けている、とのことです。
この自転車ロードレースにおける二つの重要なアイテム、すなわち、選手自身の体、そして選手の安全とパフォーマンスを左右する自転車、その双方を管理する重要なポジションを日本人が任されているという事実・・・これも又、凄いことだと思います。

さて、話は変わりますが、先日、ちょっとチャンネルや放映日時は忘れましたが、たまたまテレビを点けた時にやっていたドキュメンタリー番組のことを書きたいと思います。
途中から見たのでタイトルも分からないのですけど、ざっと内容だけをご説明しますと、それは、男女カップルの日本人フラメンコダンサー(を中心とした舞踊団)が、フラメンコの本場スペインのへレスという町で毎年開かれるフラメンコの競技会“へレスフェスティバル”に参加を認められ、日本人として初めて挑戦するその過程と大会当日までを密着取材したもの。
主演する二人のフラメンコダンサー、特に女性の鎌田真由美さんという人は、日本のフラメンコ舞踊家・振付家としては第一人者として長いキャリアのある人で、スペインでも公演を重ねているという実力者、そしてパートナーの佐藤浩希さんは同じく振付家でもあり、1992年に鎌田さんに師事してからずっと、ほとんどの舞台を一緒に務めているそうです。
二人ともフラメンコという伝統芸術の枠にとらわれずに、様々なジャンルとのコラボレーションや新しい試みに挑戦し、その優れた身体能力と表現力は内外から高い評価を得ています。

彼らのこのフェスティバルでの出し物は“曽根崎心中”・・・そう、あの近松門左衛門の描いた日本特有の愛情世界をフラメンコで表現しようというもの・・・そのプロデュースと作詞は阿木耀子、音楽の作曲と監修は宇崎竜童と聞けば“なるほど・・・”と頷けます。
この作品自体は、実は日本では3年も前から公演されていてその芸術性を高く評価され、2001年には芸術祭の優秀賞を受賞したほどの作品ですが、番組では“フラメンコの本場で、日本人が、しかも「心中」という日本固有の愛の形をフラメンコで踊る”ということに対する、スペインの人たちの抵抗感や無関心さなどを、公演前の観客へのインタビューや記者会見の模様を中心に伝えていきます。
“日本人に踊りとしてのフラメンコは踊れても、スペイン人の魂は決して真似は出来ない”“心中という概念は、日本人以外には理解できない”・・・そのような辛辣なコメントが次々と紹介されていきます。
そうした中、鎌田さんと佐藤さんは記者会見の度ごとに“私たちは日本人だけど、国籍とか歴史を超えた人間としての愛、魂、そして踊りを見て貰いに来た”と、決して饒舌ではないけれど誠実な言葉で説明をします。
そして鎌田さんは、モノローグとしてつぶやきます・・・“言葉で説明できるくらいなら、踊りなんかいらない”と。

実は、私自身も以前、この「空・間・塾」で触れたことがありますが、スペインの民謡とも言えるカンテ(フラメンコ)の音楽性は、そのメロディーラインも歌い方も、日本古来の民謡や語り歌にとても良く似ています。
実際、そのメロディーを構成する音を拾い出してみると、それは全く“和音階”と同じ音が使われていることが分かりますし、又、双方に共通する“こぶし”を使った歌い回しは、インドに発祥したヒターノ(ジプシー)が移動してきた経路にあたる地域に特徴となって見られることが確認され、その分布図にはスペインの南部(へレスを含むアンダルシア地方)とアジアの一部(モンゴル、韓国、日本など)が含まれているのです。
音楽が、その民族特有の気質や特徴を表すひとつの表現方法だとしたら、その双方の“ものの考え方”にも共通点があったとしても不思議ではありません。
地理的にも文化的にも全く遠く離れた地であっても、もしかしたら、根本にある“魂”は理解し合えるかもしれない・・・番組は、そうした民族の共通点や歴史を紹介しながら、それでも隔たりのあるスペインの地で、今まさにそのことを実証しようとする日本人ダンサー達の姿を追っていきます。

さて、番組は進んで、いよいよフェスティバル当日。
皆で円陣を組み、気合いを入れて舞台の幕が開くのを待ちます。
観客はほぼ満員の入りですが、その表情は“期待などしていないけど、とりあえず見に来た”というような顔ばかり。
幕が上がると、舞台は抽象化された幻想的な世界ながら日本特有の暗い色合いに包まれ、和太鼓を交えたりしつつも、フラメンコの形式に則った楽器が奏でるリズムに乗せた日本語の歌が流れる中、着物をアレンジした鮮やかな色彩の衣装に身を包んだダンサー達が、しかしその表現としての踊りはフラメンコそのもののステップ、かつ、とても高度なテクニックと豊かな感情表現で、まるでつづれ折りのような場面を“曽根崎心中”の物語に忠実に、次々と展開していきます。
そして迎えるラストのクライマックスシーン・・・白い衣装に身を包んだ鎌田さんと黒っぽい衣装の佐藤さんが、たった二人で“踊り”というよりもまるで“オペラ”のような“演技”で表現する心中シーン・・・観客席はただただ静まりかえっています。
二人が折り重なって倒れ、舞台の中央にそのまま静止し・・・エンディングの曲が流れ全てが終わったとき・・・
会場はスタンディングオーべーションの大きな拍手の嵐に包まれ、涙を流している人もいます。
出演者が舞台挨拶に並び何度もお辞儀を繰り返すうちに、ずっと続いていたその拍手がいつの間にかパルマ(フラメンコの時に取る独特の手拍子のリズム)に変わり、それに合わせて即興で踊る鎌田さんと佐藤さん・・・その表情は大きな達成感に包まれて、本当に満足そうな笑顔でした。

会場から出てくる観客に感想を聞くと、ある人は“こんなに素晴らしい舞台は初めて見た。あの日本人は小さいけれど、本当に素晴らしいフラメンコを踊る”と感心し、又、ある人は恐ろしいものを見たような表情で“二人の気持ち(登場人物としての主人公)が怖いほど伝わってきた。まるでスペイン人の魂を持っているようだ”と興奮して語ります。
そして翌日の現地の新聞には、どれも大見出しでこの“曽根崎心中”が取り上げられ、絶賛されたということです。
スペイン語での言葉自体は忘れましたが、スペインでは、素晴らしいフラメンコの舞台には“魔物が宿る”という言い方をするそうです。
この日の、日本人が日本の物語を踊ったフラメンコの舞台には、確かに“魔物が宿っていた”と、番組は結ばれていました。

実は、あくまでも個人的な好みの問題として、私自身はどのようなものでもルーツが欧米にあるような“洋”の世界に、日本の伝統的な文化をモチーフとして持ち込むことはあまり好きではありません。
具体的に言えば、着物生地を使った洋服、和楽器を使ったロック、伝統工芸的な家電製品などです。
なんだか、それって反則だろう、みたいな気分になってしまうのです。
そうした観点からすれば、今回のこの“曽根崎心中”も、その内容自体は多分好きになれないと思います。
しかし、私自身がこの快挙を評価するのは、まず“日本人が本場の地に乗り込んでフラメンコを踊る(舞台を演る)”というだけでも、凄いことだと思うからです。
更にその上、物語も音楽も振付も全くのオリジナルであり、その物語が現代のものではなく何百年も昔に書かれた日本の古典ものだということ・・・
たった一つでも果敢な挑戦である要素をいくつも、しかもいっぺんにぶつけてしまうその勇気・・・いくら日本国内では高い評価を得ていた公演とはいえ、言うまでもなくスペインでの評価は全く別のもの。
何の評価も得られないばかりか“所詮日本人”と冷笑を買い、酷評される可能性もあります。
おそらく、彼らの中には相当の自信もあったとは思いますが、大変なプレッシャーの中で堂々と最高のパフォーマンスを見せることが出来るその度胸と勇気、それこそが何よりも凄いことです。
そして、やはりここでも受け手側の、“魂が違う”という先入観のマイナスアドバンテージがあっても尚、良いものには惜しみなく拍手を送って讃えるという芸術に対する敬意と、懐の広さに胸を打たれます。

さて、(お待たせしました!)我々の仕事のインテリアデザインの世界でも、海外で頑張っている日本人がいます。
我々の業界では、実は私も経験がありますが、スポットで“海外の物件をデザインする”という意味では、もう20年くらい前から多くの日本人デザイナーが海外の仕事をしています。
しかし、ここでは“海外在住”の日本人デザイナーをご紹介したいと思います。
その方は、鶴田博己さんと言って、ニューヨークに住んで現地のデザイン事務所で仕事をしている、35歳の男性です。
私は彼と2000年にダナキャランの仕事でニューヨークに行った時に知り合い、その時に大変お世話になりました。
その後は全くお会いしてはいないのですが、それ以降、時々メールで「空・間・塾」の感想などを頂いたりしています。

彼は、5年前、結婚を機にそれまでデザイナーとして勤めていた東京の大手施工会社を辞め、奥さんとニューヨークへ渡りました。
何故、ニューヨークなのか・・・ご本人の弁によると、ニューヨークに住むということは奥さんの希望であったこと、そして、海外でインテリアデザインの仕事をするという選択は、彼自身、日本にいる時にヨーロッパやアメリカのデザイナーと仕事をしたことがあり、その際に“この程度だったら俺でも出来る”と思ったことがきっかけだそうです。

実のところ、私も含めてほとんどの業界関係者が、ことインテリアデザイン、そして建築や内装工事の技術レベルについては、日本が世界一だと思っています。
まずデザインについては、倉俣さんを筆頭に大先輩の方々の素晴らしい作品や実績のお陰ではありますが、いわゆるモダニズムとしてのミニマルデザインの空間を創らせたら日本人デザイナーに敵うものはいないと信じています。
そして、そうしたデザイナーと共に、ミリ単位の納まりを追求してきた日本の施工会社の技術、これは世界レベルで見るとほとんど神業と言っても良いほどのクオリティ(実際、良くヨーロッパやアメリカのデザイナーが来日して、自分のデザインした現場の竣工時を見ると、日本人から見るとダメ工事だらけのひどい施工でも“素晴らしい!パーフェクト!”を連発するそうです)。
更に、デザイナーと施工業者のレベルはリンクするものですから、日本人デザイナーの方が多くの施工知識やディテールのノウハウを持っている、という側面もあると思います。
ですから、鶴田さんが海外のデザイナーと仕事をしたときに“これだったら・・・”と思うのも当然のことかもしれません。
ことインテリアに関しては、決して“日本人が海外に勉強に行く”時代ではなく、逆に“日本の感性や技術を伝授しに行く”時代になっている、と言っても過言ではないでしょう。

しかし、やはり“壁”は言葉と文化の違い・・・鶴田さんも移住当時はかなりとまどい、落ち込んだこともあるそうです。
幸い、仕事面ではあるデザイン事務所にすぐ採用になり、ビザの面でも問題なくスムーズに進み、本業のデザインの傍ら現場監理の仕事などもこなしながら、3年間在籍。
その間、アメリカ流のユニオンシステムの融通のなさや、職人のレベルの低さ、向上心のなさ、スケジュール管理のルーズさなどに悩まされながらも、いつの間にか慣れて、逆に“良い仕事をすることの意味と喜び”を少しでも分かって貰おうと“日本流”の仕事の進め方や技術を根気よく教える日々を送っていました。
そのうちデザインの方でも“良い仕事”の依頼が来るようになり、後に高く評価される和食店“JEWEL BAKO”のデザインの仕事を機にその事務所を退職、現在はSTUDIO MARZ (スタジオマーズ)という事務所で多くのショップやレストランをデザインし、昨年はホスピタリティーデザイン新人賞受賞という快挙も達成しました。
彼がデザインしたいくつかのレストランやデザートバーなどを写真で見て、私が感じたことは“ああ、これはまさしく日本のモダニズムだな”ということ。
そこには、間違いなく彼が持って生まれ、日本のインテリアデザインの世界で体現してきた日本人独特の美------シンプルで合理的、しかしどことなく人肌のぬくもりを感じさせる柔らかな光とライン------が高い完成度で表現されていました。
付け加えるならば、それは単に“日本独特の”というだけではなく、ニューヨークという環境の中でこそ醸成された、彼自身の“国籍のない”オリジナリティと言えるものに違いありません。

彼は、ニューヨーク(アメリカ)で仕事することについて、以下のように語っています。
「ニューヨークは人種の坩堝なので、色んな国で色んな環境で育った人たちが働いています。
その為、感性や感覚の違いで意見がぶつかりあう事は日常茶飯事で、日本で当たり前なことが、ニューヨークでは何度も説明をしないと理解してもらえなかったりします。
ニューヨークの良いところは、移民の国ということもあり、ネームバリューが無いようなデザイナーにもチャンスをくれることです。
それと、デザインというソフトに対して価値を見出してくれる国だと思います。
デザインが優れていると認められた場合には、それに対して支払われる金額も大きいですよ。
仕事の際には、そのプロジェクトに関わる人達の言葉を少しでも覚えて、彼等のネイティブの言葉で挨拶をするようにしています。
中国の人達とは、筆談でミーティングをしたこともありますよ。
このようなちょっとしたことが、コミュニケーションの潤滑油になってくれるのです。
英語が完璧でなくても、お互いに同じ目的で仕事をしているので、不思議と解り合えてしまうんですよね。」
-------以上、鶴田さんの特集をした“NYメイクアップアカデミー日本校”のサイトに掲載された記事から引用させていただきました。

彼も又、勇気と実力でその活躍の場と評価を勝ち取ってきた“インターナショナルな日本人”と言えるでしょう。
HONDAやNISSANの自動車ではないですが、ニューヨークにいる日本人デザイナーの鶴田さんに日本の物件のデザインをして貰う、という“逆輸入”現象が起こる日も、遠いことではないかもしれません。

翻って日本でも、今や相撲という国技、まさしく日本の伝統文化そのものとも言えるスポーツの世界で、多くの外国人力士が活躍しているばかりでなく、唯一の横綱が外国人という現象が長く続くまでになってしまいました。
そうした人材の流入を阻むことをしなかった角界の度量も大したものだとは思いますが、全く未知の世界に身を投じた彼らの勇気も凄いことです。
そして、いつも驚くのは、どの国から来た力士もほとんど1年いるだけで、まるで日本で生まれたように日本語を流ちょうに話すこと。
同様に、髷も着流し姿も、いつの間にか何の違和感もなく似合ってきてしまいます。
おそらく日本に来る前に日本語の勉強などしている人はいないでしょうし、もちろん通訳などもあてがって貰えないでしょう。
これはまさしく、単身で世界に飛び出していく日本人GPライダーや自転車ロードレースの選手と同じ・・・必要こそが発明の、いえ“上達の母”・・・そのようにいきなりその国の文化の中に裸で飛び込んでしまうのが、一番の近道ということなのでしょうね。

そうそう、つい最近のことですが、たまたま仕事関係の知人の紹介で、ある若者に出会う機会がありました。
彼は多分まだ20代の半ばくらいのダンサーで、クラシックバレエを本職としている女性と創作モダンダンスのユニットを組んで、ライブなどで活動しています。
自分たちのやりたいダンスという夢を語る彼らのキラキラと輝く澄んだ瞳、そして、すがすがしい表情・・・
このお二人共と一緒にお会いしたのですが、私はその時も“若さの良い匂い”を強く感じました。
その彼が、ふとした会話のついでに“実は2週間後くらいにベルギーに行くんです”と言うので、何のための旅行か聞きましたら、あるダンスのオーディションを受けに行くのだ、ということ。
そして、なんと彼は、まだパスポートを持っていないのでこれから作らなければならないとのこと、すなわち、初めての海外旅行だということです・・・しかもたった一人で、更に観光ではなくオーディションという重大な目的のために・・・
“僕、もう空港着いただけで感動しちゃうと思うな、でも、目的地にたどり着けなかったらどうしよう”なんて言っている割には、全然不安気ではない涼しい表情。

私はなんだかとても嬉しくなりました。
ここにも、こうしていとも軽々と境界線を越えて、羽ばたこうとしている若者がいる・・・
そして、これから夢に向かってジャンプする人たちにとって、国境などと言う境界線は、もうすでに存在していないのかもしれません。
結果はどうあれ、その軽快なフットワークこそが、世界を舞台に活躍する礎となることは間違いないでしょう。
その可能性を信じて、勇気を持って挑戦していって欲しいと願います。



この“曖昧になった境界線”というテーマでは、かなり前に一度書いたことがあります。
その時は、主に私達の仕事における境界線とそのボーダーレス現象について書きましたが、今回のPART-2では“境界線”の本来の意味である現実の国境そのもの、そしてそれを越えた“人”について書きたいと思います。

昨年の夏から秋にかけて、私は立て続けにふたつの、音楽+パフォーマンスの公演を観る機会に恵まれました。
ひとつは“BLAST!(ブラスト)”という、ドラム・コー(アメリカの南北戦争頃を起源とした、いわゆる“マーチング・バンド”の進化形ともいうべきブラス・セクション=吹奏楽器と、ビジュアル・アンサンブル=バトントワラーや手旗信号などをベースとしたダンス・アンサンブルの融合したパフォーマンス)のステージ。
もう一つは、これはご存じの方も多いと思いますが、ストリートパフォーマンスから生まれた、身の回りのありふれた日用品や自分の体を使って(叩いたり擦ったりして)リズムハーモニーを作り出し、ダンス的要素をミックスした“STOMP(ストンプ)”のステージ。
どちらも初めて観たのですが、どうしてそのようなステージに興味を持つようになったかというと、数年前に友人に教えて貰ったオーストラリアの“タップ・ドッグス”という公演を観に行ったことがきっかけです。

この“タップ・ドッグス”は、従来のタップダンスの常識を全くうち破った、現代的でカジュアルな演出に仕立てたられたもので、その舞台装置の奇抜なアイディア、振り付け、目の前で躍動する肉体と飛び散る汗(特に素晴らしくスタイルの良い若い男性ばかりというダンサー達もポイントが高かったのは否めませんが)、全てに大変感動して魅了されてしまい、私は翌年の来日公演も又観に行ったほど好きになってしまいました。
------このタップ・ドッグスについては、制作したデイン・ペリーという人の自伝的映画も制作され、日本でも公開されました。
DVDやビデオでも販売されていますので、詳しくお知りになりたい方は以下のURLへ。
http://www.foxjapan.com/movies/tapdogs/  
ただ、私もこのビデオは観ましたが、実際の公演の方が何倍も格好良いです!
実際のライブパフォーマンスを撮影したものは、
http://wmg.jp/artist/tapdogs/WPBS000095034.html  
をご参照下さい。ただし、しつこいようですが、映像よりも生の舞台の方が何倍も格好良いです!---------
そして、その“タップ・ドッグス”が引き金となって、パフォーマンス系の舞台にも興味を持つようになり、イープラスやオーチャードホールの公演予定などをチェックして、面白そうなものに積極的に行くようになったのです。

さて、話は戻りますが、昨年観た“BLAST!”と“STOMP”のステージで、驚いたことがありました。
それは、そのどちらの公演にも、なんと日本人がメンバーとして参加していたことです。
“BLAST!”の方は、石川直(なおき)さんという29歳の男性。
彼はスネア(小太鼓)のスペシャリストで、オープニングを飾る最大の見せ場“ボレロ”でフィーチャーされました。
開演の合図があると、まず真っ暗な舞台から、ボレロのあの独特のリズムが、初めは静かで荘厳なスネアのソロで響きます。
そして、舞台にスポットライトが当たると、中央にスネアを腰に付けた男性がひとり立っている。
それから徐々に、舞台の袖から登場するホルンやトロンボーンなどの重低音が加わり、リズムパートを構成。
その後、次第に楽器の数が増えてメロディーラインが加わり、それと共に舞台に演奏者が増えていく。
曲調が盛り上がるにつれ、それぞれ金管楽器を演奏しながら登場する他のメンバーは、リズムやメロディーに合わせて石川さんを取り巻くようにステップを踏み、アンサンブルのダンサー達も入り乱れて計算され尽くした動きの中で交錯し、音だけでなく視覚のハーモニーを展開。
そして、ご存じのように、最後には何十という楽器による壮大なクライマックスを迎えます。
石川さんは、このポピュラーでありながらも難しい楽曲において、最初から最後まで中心となる重要な“スネア”というパートを、全く堂々としたスターぶり、そして素晴らしい演奏で演じきったのです。
その他にも、躍動的で激しい動きと共に演奏するナンバーや、コミカルなドラム対決などほとんどのシーンに登場し、その実力を遺憾なく魅せてくれました。
“BLAST!”のライブDVDもあります。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88/dp/B00009PN5F

次に“STOMP”の方は、宮本やこさんと言って、多分20代の女性(女の子といった方が良いような、小柄でボーイッシュで目のくりっとしたかわいい人です)。
この方の経歴は以下のサイトに詳しいですが、何の知識もなく公演を見たにもかかわらず“もしかしてあの人、和太鼓をやってたのかも”と思った通り、もともと“鼓舞”という和太鼓のパフォーマンス集団の代表をしていたとのこと。
“STOMP” でも、小柄な体ながら、宙づりになって大きな壁一面に設置された様々な打楽器(と言っても、単に“音の出る板”といった感じ)を叩きまくったり、日本人のルーツにはないR&Bやファンク、HIP-HOPのような“洋風”のリズムにも全く違和感なく合わせて、ゴミ袋を叩いたりマッチ箱を振ったりして溶け込んでいましたが、時折見せるスティックを持った時の体全体を使うその演奏ぶりに“和太鼓”独特のダイナミックな動きとテイストを感じたのでした(“STOMP”自身も多分に“和太鼓”のリズムを気に入っているらしく、率先して取り入れているような部分もあります)。
やこさんについて詳しくは、以下のサイトにて
http://yakomiyamoto.hp.infoseek.co.jp/Resume.htm

今更驚くべきことではないのかもしれませんが、私はこのふたつの“外国発信”の公演で見た二人の日本人の存在、そして活躍ぶりに目を見張ると共に、そうした現象が当たり前のように見られることになった“時代の変化”に、感慨を新たにしました。
数年前までは“外国で活躍する日本人”と言えば、日本の伝統文化やその分野での才能を持って外国に行き、その特有の技能で評価されるのが常識でした。
しかし、今や彼らのように“マーチングバンド”や“ストリート・パフォーマンス”という、全く我々日本人にルーツのないジャンルで腕を磨き、そうした伝統や文化を持つ国の人たちと全く同じ土俵で、オーディションなどの競争を勝ち抜いて立派にその第一人者としての地位を得ている、という事実・・・もちろん、その国に長く居住しているとか、専門の教育を受けているとか、そうしたアドバンテージはあるとしても、それでも、全くの実力だけで評価されて認められるということは、もちろん彼ら自身の才能と努力の結果によるものでしょう。
しかし私は、そうした能力以前にまず、外国だとか日本人だとかというボーダーラインを意識せずに、自分の目標に向かって恐れずにチャレンジし、その世界でのトップを目指す彼らの精神に、今までの日本人になかった価値観の変化を感じてしまうのです。

以前友人と“「世界の○○」と言われる日本人で、すぐに頭に浮かぶのは誰?”という話をしたことがありました。
その条件としては、海外の舞台(スポーツでも芸術でも)で結果を残していること、言い換えれば日本人だけでなく外国の人から認められていること。
そこで出てきたのは、スポーツ界では“世界の中野”“世界の荻原”“世界の青木”、音楽界では“世界の小澤”“世界の坂本”、そして映画では“世界の黒澤”・・・など(まあ、異論は色々あるでしょうが)。

中野浩一さんは、言うまでもなく日本では競輪のトップ選手として一時代を築いた人ですが、実は自転車の世界選手権で前人未踏の十連覇という偉業を成し遂げている人。
ヨーロッパで人気のある自転車競技の世界では、実は中野さんは日本よりもうんと評価が大変高く、(ヨーロッパでは)テレビコマーシャルなどに出なくても誰でも知っているほどの有名人で、今でも大変尊敬されています。

荻原健司さんも、オリンピックでは思うような成績が残せなかったものの、その絶頂期には、ノルディック複合競技のW杯で“誰も荻原には勝てない”と言われていたほど連戦連勝を重ねていました。
ノルディック複合という競技も、その名前の通りヨーロッパ、特に北欧でさかんな伝統的スポーツで、北欧の人々にとってはいわばお家芸ともいえるもの。
それがアジアの小さな島国である日本の小柄な選手に勝てない・・・その屈辱たるやいかほどのものだったか・・・あの、よく変更になるレギュレーションも本当は“荻原に勝たせないため”だったとも言われています(その後は、ジャンプの種目で後に続いた日本人選手を勝たせないために、と)。

プロゴルファーの青木功さんは、世界3大メジャー大会での優勝こそないものの、早くからアメリカツアーに参戦して並み居る世界のトッププロと互角に渡り合い、中でも1980年の全米オープンでのジャック・ニコルソンとの優勝争いが印象に残っています。
60歳を超えた今でもアメリカを活動拠点として現役でシニアツアーに参戦、ついに1000試合出場(日米合わせて)という偉業を成し遂げたそのスーパーマンぶり・・・そして“ヘイ、ジャック!”と気軽に肩を叩いて語りかけるそのキャラクターも“インターナショナル”そのものの人であると言えるでしょう。

指揮者の小澤征爾さんは、音楽会ではもう揺るぎのない世界の“巨匠”で、以前はボストン交響楽団、今はウィーンフィルの指揮者を務めています。
音楽の世界で“OZAWA”と言えば、おそらく知らない人がいないほどの有名人でしょう。
坂本龍一さんもご存じのように、ニューヨークに住み、ポピュラーだけでなく映画音楽や交響曲なども作曲し、世界的に名前の知られている音楽家と言えます。
なんと言っても、バルセロナオリンピックの開会式典の非常に重要なプログラムの作曲を任され、その会場で実際に指揮棒をふるっていた姿は今でも瞼に焼き付いていますし、その時には感動と誇らしさで胸が一杯になったのを憶えています。

黒澤監督も、言うまでもありませんね・・・スピルバーグ、ルーカスを初めとして、多くの著名な映画監督が彼を心から尊敬し、影響を受けたと公言しています。

さて“世界の”と冠詞の付く人物を何人かあげましたが、今やプロスポーツの世界では、日本人の“出稼ぎ”が珍しくない時代となりました。
大リーグの野茂選手やサッカーの三浦カズ選手が、アメリカやイタリアへ行くと言って大騒ぎをしていたのが、まるで遠い過去の出来事のようです(三浦カズ選手に関しては、イタリアへ渡るはるか前、実はまだ15歳くらいの時に、ブラジルに渡って本場のプロリーグで活躍し、Jリーグの立ち上げ時に日本に帰国したという経歴があります)。
現在もエースとして活躍している野茂選手や、イチロー、両松井選手など(今では数えるのも大変なほど)の大リーガー、サッカーでは中田、小野、稲本、高原選手など、海外、それも本場の一流舞台で活躍している多くのスポーツ選手がいますが、ここでは、日本では(もちろん、ファン以外はという意味で)あまり注目されていない、ちょっと違うプロスポーツに関して少しだけお話ししたいと思います。
このページを読んで下さっている方達は、スポーツの話題で、私が良くサッカーやラグビーだけでなく、オートバイや自転車についても触れることをご存じだと思いますが、そのオートバイと自転車競技の世界で活躍する日本人についてです。

実は、オートバイ(世界二輪選手権=以下WGP)の世界では、すでに10年以上も前から当たり前のようにトップ選手として活躍している多くの日本人ライダーたちがいます。
このWGPについては、まあ、手っ取り早く言えば、F1のオートバイ版とでも言ったら分かりやすいでしょうか。
実際、シーズンもF1とほぼ同じシーズン(寒いときには出来ないので)に、F1と1週間ずれる形の2週間に1回のペースで、日本、マレーシア、ブラジル、オーストラリア、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツ、チェコ、オランダ、フランス、あと、南アフリカでしたか、基本的にはヨーロッパを中心に数カ国のサーキットを回ってレースを行います。
日本では、もちろんF1同様、昔から熱烈なファンは沢山いますが、野球やサッカーの人気には足下にも及びません(私は、スポーツの日本での人気度を測る物差しとして、スポーツ雑誌“Number”が特集する頻度を基準にしてたりします)。
しかし、ヨーロッパではサッカーと同じくらい人気のあるメジャースポーツ。
現在MotoGPクラスでは敵なしのチャンピオン、イタリアのヴァレンティーノ・ロッシ選手などは、ファンのおっかけがあまりに凄くてイタリアに住むことが出来ないほどだそうです。
そして、この世界で一番有名な日本人は、なんと言っても“世界の原田”こと原田哲也選手でしょう(惜しくも一昨年引退してしまいましたが)。
彼も又、イタリア、いえヨーロッパ全体で大人気で、多分サッカーの中田選手よりも有名な日本人と言い切って良いほどの“スター”(彼も確か、イタリアを逃れてモナコかどこかに住んでいると思います)。
しかしその他にも、すでに引退した人も含めて沢山の日本人のトップ選手がいます。
主立ったところでは、坂田和人、阿部典文、宇井陽一、岡田忠之、宇川徹、青木三兄弟、中野真矢、上田昇、そして、昨年開幕戦の事故でその才能あふれる若き生涯を閉じた加藤大治郎・・・

確かに、オートバイのマシンの世界では、HONDA、YAMAHA、SUZUKI、そしてKAWASAKIといった日本のメーカーが席巻していますので、その為に日本人ライダーが日本のメーカーのマシンに乗るのはごく当然、のような印象を持たれるかもしれません。
しかし、F1でもそうですが、こうした世界レベルのプロスポーツではナショナルチームではないので、当然マシンもライダーも多国籍なのは当たり前の世界。
日本製のマシンだからといって日本人ライダーが優遇されると言うこともなく、単に“優秀なライダー”が世界から集められるだけのことです。
そして又、そのようにピックアップされた日本人ライダー達の経歴を見てみれば、ほとんどが5〜6歳の頃からポケバイに乗り始め、その後ずっとバイク一筋の人生・・・もちろん、日本選手権で優勝を重ねてから世界選手権へとステップアップするわけですが、いわばバレエやクラシックの演奏家などと同じ“エリート” と言えるので、それは当然なことなのかもしれません。
更に、実際にレースに参加するチームというのはマシンメーカーとは又別の存在でもあり、彼ら(ライダー)は、基本的にはたとえHONDAやYAMAHAのライダーであろうと、所属するレーシングチームの所在地(多くはイタリアやスペイン、フランスといったヨーロッパ)に住み、時には全く日本人のいないチームの人々と共に仕事をします。

又、F1やこうしたモータースポーツがお好きな方は良くご存じだと思いますが“良いライダーは良いメカニシャン”と言われています。
レースで勝つためには、マシンの性能とライダーの能力が一体となって、共に最高のパフォーマンスを発揮しなければならず、ライダーは自分のライディングにぴったりフィットするマシンを作ってもらうために、メカニックや開発チームに、ごく微妙な部分まで言葉で伝えなくてはならない。
当然、言葉はチームで交わされる主言語・・・イタリア語、スペイン語、フランス語など(ヨーロッパの英語圏以外の国の人たちは、例え英語が話せたとしても、ほとんど使わないそうです)。
イタリア語を話す人が多いようですが、彼ら日本人ライダーのその“第二言語”によるコメントを初めて聞いたとき、まるで母国語のように流ちょうなことに驚きました。
特に原田選手のイタリア語、上田選手の(イタリア語も堪能ですが)ポルトガル語、それは素晴らしいものです。
世界最高峰のレースで、常にトップを走り続ける彼らのすごいところは、そうしたコミュニケーションをきちんとこなしている、ということの結果でもあるからなのですが、逆に言えば、それはそうしたプロフェッションで生きる上では絶対的な必要条件といえるのかもしれません(聞くところによると、通訳などは初めから全く付かないそうです)。

ちなみに、WGPのオフィシャルの場、すなわち表彰台にあがった選手のインタビューなどは、全て英語で行われます。
頻繁に表彰台に上る彼らもその時には当然英語で話しますが、その発音や文法はかなりひどいもの(笑)。
しかし、決して照れたり恥ずかしがったりせずに、その態度は実に堂々としていて、きちんと言いたいことを伝えています。
きっと彼らにとって言語とは、基本ルールや形式ではなく“伝えること、伝わること”が重要な、単なるコミュニケーションのツールなのでしょう。
そして、使用頻度の高い言語は、当然上手くなっていく。
何よりも、そうして必要とあらば何カ国語でもしゃべってしまうという彼らの姿勢こそが、まさに世界で活躍している証なのだと思います。

そうした日本選手の中で、特に坂田選手の話が強く印象に残っています。
彼はずっと125ccで活躍した選手で、アプリリアというイタリアのマシンメーカーのチームに長く所属していました。
1990年から世界選手権に参戦、1994年には日本人として初めてイタリア製マシンに乗り、かつ125ccクラスで初の日本人チャンピオンとなり、その後 1998年にも二度目のチャンピオンとなっています。
当初、彼はワークスライダー(いわばメーカー直属とでもいうか、メーカーが運営するチームに所属するライダー)ではなく、プライベートライダー(例えば同じHONDAのマシンでも、メーカーとは関係なく作られたチームに所属するライダー)としてイタリアに渡りました。
もちろんイタリア語も話せず、メカニックの弟さんとたったふたりきりでのイタリア行きでした。

ワークスライダー(チーム)とプライベートライダー(チーム)との違い・・・実は雲泥の差があるそうです。
まず、言うまでもなくライダーの“格”が違う。
ワークスライダーというのは最高のステータス、位が違うと言っても過言ではないでしょう(レースに出るのは各メーカー2人のみ)。
そしてチームとしては、メーカーもワークスチームを優先するので、同じマシンとはいえ、小さな部品一つでもサポート体制が全く違うそうです。
一方プライベートチームの場合には、ライダーも限られた予算や装備の中で少しでも結果を残さなければならない、言い換えれば、ライダーの成績に存続がかかっている、とも言えるのです(もちろん、大金持ちのスポンサーがいれば、掛けられるお金や装備も違うでしょうし、高いお金を払って優秀なライダーを雇うことも出来るでしょうが)。
そうした過酷な条件の下、イタリア人ばかりのチームで言葉や文化の壁にも苦労しながら、弟さんと二人三脚で彼は着実に結果を残していきます。
現在、主立った日本人ライダーはほとんど最高クラスのMotoGPクラスに行ってしまって、その下の250cc、更に125ccといった軽いクラスで日本人の表彰台を見ることがほとんどなくなってしまいました(そのうち、又出てくるでしょうが)。
しかし、私がWGPを見るようになった当初、アプリリアというイタリアのオートバイメーカーがあることを教えてくれたのも、小型のクラス特有のアクロバティックな走りでその面白さを教えてくれたのも、125ccクラスの坂田選手であり、ヤマハとアプリリアの250ccで活躍していた原田選手であったことは、間違いありません。

実は、坂田選手や原田選手に先駆けて世界選手権へ参戦し、後続の彼らへWGPへの道を開いたライダーが存在していました。
そのライダーは若井伸之さんといって、原田選手の親友で坂田選手とも大変仲が良く、彼らにWGPへの参戦を呼びかけただけでなく様々なアドバイスを与えたと言われています。
その若井選手が、1993年、スペインでの予選中にピットロードに飛び出した観客を避けて転倒、そのまま帰らぬ人となった時、坂田・原田両選手は、その悲しみとショックから立ち直るまでに大変な努力と時間が必要だったとのことです(彼が活躍した頃、私はまだWGPを見ていませんでした)。
WGP日本人ライダーの先駆者としては、80年代に活躍した、あの、映画“汚れた英雄”のモデルともなった平忠彦が有名ではありますが、今現在海外で当たり前のように活躍する多くの日本人モトライダー達への道を開いたという点では、時代的にはこの若井選手、そして、彼を頼って後に続いた坂田選手と原田選手が果たした役割は大きかったと言えるでしょう。

もうひとつ、私の心に残っている映像に残されたシーンがあります。
それは、昨年の鈴鹿での開幕戦でクラッシュし、亡くなった加藤大治郎選手の追悼番組(NHK)で観た、当日のテスト走行後の模様。
実は、加藤選手はまだイタリア語があまり上手くありませんでした。
彼は元々日本語でも決して饒舌ではなく、本当にまだるっこしいほどのゆっくりしたスピードで、必要最低限の言葉をポツポツとしゃべります。
でも、一緒に過ごしたチームメイトは皆一様に“大治郎とは言葉を超えたコミュニケーションができるんだ。彼は自分から決して人の関心を引こうとはしないけれど、どういう訳か、彼の周りにはいつも人が集まっているんだよ”と言っていたので、きっとイタリア語など満足に話せなくても、彼独自のコミュニケーションの方法・・・例えば周りが自然に引き出してくれる、人柄ゆえのオーラのようなものがあったのでしょう。
映像は、その彼がテスト走行の後、何度も何度も、たどたどしいイタリア語で一生懸命スタッフに伝えようとしているその姿・・・
字幕によると“なんか、ぶわっ、て音がするんだ、ぶわっ、って・・・”
いくらスタッフが宥めようとしても、どうしても納得いかないらしく、いつまでも首をひねって訴えている大治郎。
事故の原因は、映像を見る限り他のバイクと接触したことのようですが、公式にはきちんと発表されていません。
“大ちゃん、本当は何を言いたかったの?”と、画面を見つめながら、問いかけずにはいられないシーンでした。

<後編に続く>


<前編より続く>

以上のケースの場合、厳密には私が先に“怒った”のではありませんし、“喧嘩”というのとも少し違うと思いますが、その反応の根底には確かに“怒り”があったと言えます。
では、私が通常どういうときに怒るのか、と言うと(ここでは社内のことは省きます)、これは私自身の記憶の範疇ではありますが、例えば施工会社さんに対しては、見積書、工程表、補修工事リストなどが、こちらのお願いした日時に提出されないとき、その内容がいい加減な(きちんと確認をしていない)とき、図面、電話、ファックスやサンプルでお願いしたことがきちんと現場に反映されていないとき、工場で現物を確認しないで結果的に図面と違う什器などが納められていたとき、色々な部分での対応があまりにも遅いとき・・・すなわち、施工会社として当然果たさなければならない仕事をやっていないときです。

そして、クライアントに対しては、全く状況に合致しない理不尽な要求をしたとき(特にスケジュールや予算の面で)、お互いの了承の上で進めたことに関して後になって文句を言ったり、責任を人に(特に施工会社に)押しつけようとするとき、デザイナーや施工会社に対して“自分の出来ないことを人にお願いして、皆でひとつの店を造るのだ”という対等意識が欠けているとき・・・一言で言えば“お金を出す”施主が一番偉いと思っていて、それ故に何でもわがままが通ると思っているような場合です。
それと、怒りと言うよりも議論という形ですが、“貴方が望んでいる結果を求めるならば、その方法論、若しくはその考え方は間違っている。このプロジェクトのコンセプトをそのように設定するならば、絶対にこれこれこのように進めた方がよい”と説得するような場合が多いように思います。

すなわち、施工会社さんに対して怒るのは、それは“設計監理”という私の仕事の範疇であり、イコール、お金を出して施工を発注するクライアントの為であり、又、クライアントに対して怒るのは、前述した“絶交事件”のように、施工会社さんを守るためであり、彼らが気持ちよく仕事を出来るようにしたいからです。
そして、クライアントの考え方を諫めるときには、あくまでもそのプロジェクトの成功のために、彼らが結果として求めるものを明確にし、その為の方法論を、相手に良かれと思ってアドバイスしているだけのことです(たまに興奮して、私の声が会社中に響き渡り、何事かと関係ない人の目まで集めてしまうことはありますが)。
私自身は、こと仕事において、まず自分の為だけには喧嘩もしないし、怒りを露わにする必要も全くないと思っています。
何故なら、そんなことにエネルギーを使うくらいだったら、ただ黙って帰ってきて、そうした相手とは“もう付き合わない”と決心すれば良いだけのこと。
そこに、クライアントや施工会社という利害に関係する人達がいて、その仕事を続行して完遂することにより、より良い結果を出さなければならないからこそ、理解を求めるために、又、その関係者を守るために、声を大にするのです。

クライアント、デザイナー、施工会社という、三者で進めるこの仕事は、決して上から下へ矢印で導かれるような“縦系”の組織ではなく、正三角形の線で結ばれる、同じ大きさ、同じ立場の位置づけで成り立つ組織だと思っています。
であるならば、誰が偉くて誰が下だ、ということもなく、皆がそれぞれ自分の役割をきちんとこなさないと、全ての意味で“良い仕事”は出来ない。
その中で、我々デザイナーの役割というものは、本来の自分の役割を全うするという仕事に加えて、他の二者間の調整役という役割もこなさなければなりません。
常に客観的な立場に立ち、クライアント、施工会社、どちらの側に偏ることなく、ともすれば相対するどちらの利益も考えなければならないし、立場も守らなければならない、そして妥協のお願いや説得もしなければならないのです・・・時には“怒る”というパフォーマンスで。

そうそう、思い出しましたが、今から15年ほど前にも、実はうちのスタッフのために(と言っても結果的には私のために、ですけど)、あるクライアントと喧嘩したことがありました。
もう時効だと思うので書かせて貰いますが、それはある小さなジュエリーショップの仕事で、まだコンピューターもCADも使っていない時代でした。
私が、壁面も什器も全て一定でない曲線で構成されたデザインをしたこと、そしてその壁面が又、細かいリブ材で仕上げられていたことで、その物件を担当したスタッフは、いわゆる立体表現のアクソメを手描き(ドラフター)で仕上げるのに大層苦労し、大変な時間が掛かりました。
第1回目のプレゼンの時、おおよそのプランはOKで無事通ったのですが、店舗開発の担当者から、部分的にプラン変更の要望が出されました。
部分修正とは言え、それを修正するには平面プランもアクソメも部分的な手直しでは済まず、又、イチから描き直さなければならない内容。
しかし、販売戦略上その変更の理由も理解できたので、私はその先方の意向をちゃんと図面に書き込み再度確認もして、事務所に帰ると、次回のプレゼンまで時間もなかったことからすぐに担当者に伝えて図面修正の指示をしました。

彼女は確かほとんど徹夜状態で、難しいアールの角度を調整し、何万本になるか分からないほどの細い線を、一心不乱に鉛筆で描いて、次回の打合せに間に合わせてくれました。
そして、私がその修正プランとアクソメを持ってクライアントの元に打合せに行ったとき、前回会った担当者が、その図面を見て開口一番、“何これ、言ったこと全然反映されてないじゃない”と突き放すような言い方をしたのです。
私は“いえ、このようにおっしゃいましたが”と反論しましたが、彼は“いや、そうじゃなくてこうしてくれと言ったはずだ、全く人の話を何も聞いていないじゃないか”と一歩も譲らないのです。
まるで図面を放り投げるような態度でそう言われたので、私は(その時は私もまだ若かったので)頭に血が上り、“分かりました、そのように、言った、言わないということで、このプランに目を通そうともされないのでしたら、済みませんが、もう私はこの仕事を続けられません。設計料も一切要りませんし、この図面も差し上げますから、どうぞ、好きにお使いになって結構です”と言って、図面を置いて席を立って帰ってきてしまいました。

言い忘れや聞き間違いなどは誰にでもありますし、図面の修正も、手間が掛かろうが簡単だろうが、いつものことです。
結果として良い物をつくるためなら、誰かの思い違いで手間が余分に掛かったって、私はそんなこと気にしません(あとで追加作業料を頂くかもしれませんが)。
要は、仕事である以上、少なくとも業務に対する努力は評価されるべきですし、相手の立場を貶めたり、尊厳を傷つけるような“無礼”な振る舞いは、いくら”クライアント”であろうと許されるべきではない、と私は思ったのです。
その帰り道(そのクライアントの会社は、当時のうちの事務所から歩いて行ける距離でした)は雨が降っていて、私は傘を差してうつむいて歩きながら“ああ、○○ (うちのスタッフの担当者)になんて言おう、あんなに頑張って図面を描いてくれたのに・・・悪いことしたなあ”という思いでいっぱいでした。
実は、啖呵を切って席を立ったときも“一生懸命このアクソメを描いてくれたあの子の作業が無駄になってしまうのか”という思いからだったのですが・・・(なんだか、最初の話と似ていますね)。

で、トボトボと歩いていると、ふと道の端っこに黒っぽい、拳くらいの小さな固まりが落ちているのに目に留まり・・・立ち止まってよく見ると、それは黒いキジ模様の子猫!
雨に濡れてもじっとうずくまったままでいるところから察すると、かなり具合が悪そうです。
まだ生後2ヶ月程度のやっと乳離れしたくらいの大きさなのに、辺りを見回してもお母さん猫も兄弟も見あたらない。
そのままそこにいると、車に轢かれてしまうような場所でもありました。
その数ヶ月前に、2匹飼っていたうちの1匹を悲惨な事故で亡くしていた私は、思わずその小さな固まりを掴んで、片手で傘を差し片手で図面の袋の縁に捕まらせて抱きながら、事務所まで持って帰ってきてしまったのでした。
事務所に着くと、猫が大好きなそのスタッフ、早速その子猫に夢中に・・・
意図したわけではありませんが、その拾った子猫のせいで、とりあえずは“失った仕事”のことに触れなくて済んだのでした(というよりも、言い出せなかったのですが)。

ところが、事務所に戻って30分くらい経った頃、その物件の営業責任者である女性から電話がありました(先ほどの打合せには都合が合わずに参加していなかったのです)。
彼女が言うには、“山本さん、さっき××と喧嘩したんだって? その内容聞いたんだけど、彼が山本さんに伝えたって言い張ってたこと、それって実は、前回の山本さんとの打合せの後に社内的な打合せで上がったことなのよ。だから、もし前回の打合せの後、××が山本さんとコンタクト取ってないんだったら、山本さんに伝わってるはずないのよね。全く、きっと彼、てっきり伝えたつもりでいたんだと思うわ。彼の勘違いで、嫌な思いさせちゃってごめんなさいね”とのこと。
“ああ、やっぱりそうだったんですか”と、私の記憶違いじゃないことにほっとしたものの、“でも、申し訳ないのですけれど、彼が担当者である以上、もう、ちょっとこの仕事、私は降りさせて頂こうと思っています。あとで、部長にはきちんとご挨拶させていただきますが・・・”と彼女に話しました。
すると彼女は“私、今、山本さんに辞められるとすごく困るの。だって、山本さんの今回のデザイン、とても好きだし、どうしても最後まで一緒にやって欲しいのよね。お願いだから、考え直してくれない? ××のことは、私から部長にちゃんと話しておくから”と言うのです。
そうまで言って頂くのはうれしいのですが、あのように言ってしまった以上、結果としては私の方からお断りしたという状況であり、私が判断するべきではないので、私は“では、とにかく部長とお話ししてみます”とお答えしました。

翌日、私は部長とお会いして、まず最初に感情的になってしまったことをお詫びしてから、営業責任者の彼女から言われたこともお伝えし、私としても出来れば続けさせて頂きたい気持ちはあるが、あのように言ってしまった以上、××さんが担当者では多分無理でしょう、とお話ししました。
実は、その××さんは、以前、自身が大手設計施工会社でデザイナーをしていたという経歴の持ち主で、仕事が分かりすぎる故に我々デザイナーや施工会社を低く見るきらいがありました(口癖は“もしドラフターがあったら自分でデザインしているのに”という言葉)。
他意はないのですが、誰に対しても割とものをはっきりと言う方なので、社内的にも良くぶつかっている、という噂も聞いていました。
で、その際に部長がおっしゃったのは“××は今回の担当からはずすから、それだったら続けて貰えるだろうか?”という言葉。
私は“え、良いんですか”と驚いたものの、“それなら、やらせて頂きます”とお返事しました。
但し、部長は“でも、申し訳ないんだけど、あのプラン変更、やっぱり営業責任者の彼女としてはどうしてもして欲しい、っていうことなので、時間は少し掛かっても構わないから、図面の方、直して貰えないかな”とおっしゃるので、その件に関しては私は快諾しました。

その後、以前何度かお世話になっていた別の方が担当者になり、私もきちんと設計料を頂いて仕事を続け、その物件は無事オープンに至りました。
その何ヶ月か後に知ったことですが、例の××さんは全く別の部署(販売の方)に異動になったということ・・・設計・施工関係のスペシャリストで入社し、その道一筋で来た方にとっては、辛い人事異動であったのではないかと思います(その数年後に退社されたと聞きました)。
私のせいでそのようなことになってしまったのではないか、と胸が痛んだのですが、ところがその翌年の年明け、驚いたことにその××さんから個人の名前で年賀状が届きました。
その年賀状には、英語で“I hope you don't mind”と・・・・
あの喧嘩別れの後、全く言葉を交わす機会もなかったので、彼の心中を測ることは出来なかったのですが、彼もきっと気にしていたに違いない、と思いました。
本当は彼も悪い人ではなく、ただ仕事熱心の余り、少し暴走してしまっただけなのでしょう。
“I hope you don't mind”・・・その言葉は、私が彼に伝えてあげなければならなかったのかもしれません。

このケースでは、営業責任者の方の私への好意もありますが、まず第一に、ヨコタデザイン時代からの長いお付き合いのある部長が私を信頼して下さっていたことが、私にそのクライアントとのお付き合いを失う事態を避けさせてくれた、と言えるでしょう。
そして、××さんには申し訳ありませんでしたが、なによりも“自分の社員第一”で外部の人間は使い捨て、という身内かわいさの考え方ではなく、きちんと原因を見極めてそのプロジェクトを進めるために最良の方法を選択し、柔軟に対応することの出来るその会社の姿勢に、私は感謝もし、強い感銘を受けました。

ちなみに、その時に拾った猫は“狸みたいな容貌”から“タン”と名付けられ、その後一時重篤な状態にはなったものの快復し、14年という猫にとっては長寿を全うして、昨年、安らかにこの世を去りました。
そのクライアントのお世話になった部長も、退社された後、数年前にご病気で早すぎる寿命を迎えられ、××さんの代わりに担当者になった方も随分前に退社されましたが、又別の店舗開発の担当の方から、今でも2〜3年に一度くらいの頻度ではありますが、時々お仕事を頂いております。

そう言えば・・・もうひとつ、昔の話を思い出しました。
数年前に、ある施工会社さんと仕事をしたときのこと。
その会社は比較的大手で、良く百貨店の仕事でお付き合いすることが多いのですが、大きな会社のために社員の数も多いので常に担当者は一定の人とは限らず、ほとんど初対面の方と仕事をするのが常でした。
その時も久しぶりにその会社とお仕事をすることになり、初めて組むことになったその担当者の方が、ある日私にこう言いました。
“そう言えば、山本さん、△△ってうちの社員、知ってるでしょう?”
少し考えた私は(最近、物覚えがめっきり悪くて・・・特に人の名前が・・・)“△△さん? いやあ〜、憶えてないなあ”と答えました。
すると彼は“そいつ、すご〜く昔に(何もそんなに強調しなくても)、まだヨコタにいたころの山本さんの仕事、したことあるらしいんです。それでね、その時山本さんに「あんたは仕事に対する愛情がない!」って怒られたらしいですよ。それ、今でも憶えてる、って言ってました”とのこと。
はっきり言って、私、その△△さんのこともさることながら、そんなせりふを言った記憶も全くない。
“へえ〜、そんなこと言ったって? ハハハ、生意気だねえ〜〜”と誤魔化しながらも、ヨコタにいた頃であればまだ私は20代半ば。
どういうシチュエーションで口にしたのかも不明ですし、その人も私と同じくらいの年代だったのかもしれませんが、今にして思うと、全く“冷や汗もの”です。
まあ、その言葉をきっかけに“仕事に愛を”持ってくれたのなら良いのですが(笑)。




唐突ですが、私は良く“怖い”と言われます(笑)。
これはもちろん仕事の上でのことで、プライベートではめったに人と喧嘩することなどありませんし(←本当か?)、まして顔や体のつくりが怖いわけではありません(と、本人は思っている)。
何故“怖い”と言われるのかというと、“よく怒っている”というイメージがあるらしいのですが・・・
誰から“怖い”と言われるかというと、常識的にはスタッフ、と思われるかもしれませんが、それも違います(スタッフの本心は聞いたことがないのだが、本人はやはり、そう信じている)。
実際は、というと、第一には学生達(これは仕方ないですね、わざとそうしている部分もあるので)、そして次には施工会社の担当者さん、更にクライアント(!)・・・
実は、面と向かって人から“怖い”と言われたこともないのですが(あ、今思い出しましたが、“第一印象はすごく怖い人だと思ったけど、実際はそうでもなかった”というのは、後になってから言われたことがあります)、何故“怖いと言われる”と私が知っているかというのは、まあ、人づてというか、噂というか・・・得てして、こういう評価はそんなものでしょう。
今回は、そうした私の“怒り”についてのお話ですが、誤解の無いように弁明させて頂きますと、私は決してここに書いたように“いつも怒っている”わけではありませんので、どうか、呉々もあまり信じないで頂きたくお願い申し上げます(一部、創作が混じっています・・・)。

今年の夏のこと、あるクライアントを怒らせて、絶交されてしまうという事件がありました。
このクライアントは、あまり仕事量的には多くはないものの十年以上も前からお世話になっている方で、良い仕事をいくつもさせて頂いた、私にとっては大切なクライアントでした。
ただ会社組織としては、良くも悪くもワンマンオーナーの会社なので、トップダウンによる決定は速い反面、オーナーが駄目と言ったら絶対に駄目、という、オール・オア・ナッシング的な性格があるので、どちらかと言うと企業としてというよりも、そのオーナーとの個人的な信頼関係、という感じのお付き合い。
そして、そのオーナーが又、非常にエキセントリックな性格の持ち主なので、機嫌の良いときにはとても楽しい方なのですけれど、機嫌の悪いときや何かの拍子で怒らせてしまったときには、もう大変・・・こちらは、まるで悪いことをした子供のように直立不動、首をすくめて雷を覚悟しなければなりません。
私は、十年余り前に、そのオーナーをある方からご紹介されて初めての仕事をさせて頂いた時、どういう訳か気に入られてその後のお付き合いが続いたのですが、そういう方だと分かってからも、いつも物怖じせずに言いたいことを言っていました。
というよりも、そのようなオーナー経営者の常で、人の顔色を窺って機嫌を取ったり、萎縮して何も言えないような態度の人間を嫌う方でもあったこと、そして私自身、自分の考えや相手にとって良かれと思うことなどは、相手がどう思おうとはっきりと伝えるべきだと思っていますし、逆にそうしないと進められない仕事ですから、そうしていただけのことです。
時には“それは良くないと思います”と否定することもありましたし、持ちかけられた提案を“出来ません”とお断りすることもありました。
そういう仕事の進め方の中で続いてきたお付き合いですから、多分、それはそのオーナーにとっても、好ましい態度であったのではないか、と信じていました。
そして私自身は、そのオーナーのことを、大変厳しい方ではあっても“気が合う”と感じてもいましたし、優れた美意識の持ち主でもあり、良い仕事はきちんと高い評価をして何事にも筋を通す方でしたので、人間的には大変尊敬出来、決して嫌いな人ではありませんでした。

では、何故今回、絶交されてしまったのか、という話に戻ります。
きっかけは、一通の見積書。
以前に私がやったお店のマイナーチェンジの仕事を依頼され、現場での何回目かの打合せの日、その図面を見せて“これで良いでしょう”との了解を頂き、次に、あらかじめラフの段階の図面で施工会社さんに作成してもらった施工見積書を見せたときのことです。
パラパラと見積書をめくって目を通したオーナーが“だけど、この金額はダメだね。これでは頼めないから”ときつい口調で言いました。
その時私は、また始まった、と思って苦笑混じりに“だったら、他にお願いしてはどうですか”と答えてしまいました。
私にしてみれば、その見積をお願いした施工会社さんはこの物件の元の工事もし、私がデザインしたそのオーナーの物件は全て担当している会社で、当然ながらすでに信頼関係があるので数字に不信感を持つこともないだろうと思っていたのですが、一方、いつも“良いものを造るには高くても仕事の良い施工会社に頼まないと”と言っている割りには、“慣習”として値切るのがそのオーナーの癖であることも知っていました。
だから“またか”と思ったのですが、ただ、いつもは冗談交じりに“何とか安くしてくださいね”とかわいい笑顔で言うオーナーが、この時はどうやら機嫌が悪かったのか、笑顔のかけらもない仏頂面で“ダメだね”の一言。
売り言葉に買い言葉、と言うのでしょうか、私も、その頭ごなしの“ダメ”という言葉についムッとして、そのように答えてしまったのでした。

その時、私の返答を聞いたオーナーは突然立ち上がり、“そういうことを言うのなら、もう二度と山本さんには頼まないから、この話もこれで終わりにしてもらって、もう、帰ってくださって結構!”と怒り出したのです。
今度は、“ああ、やっちゃった”と思ったものの、時すでに遅し。
オーナーの怒りの嵐に何も言い返せず、このまま帰ろうかどうしようかと迷っていたのですが、言うべきことは言って帰らなくては、と思い直し、“分かりました。私の言葉が悪かったことは済みません、お詫び申し上げます。でも、ちょっとお話だけでも聞いて貰えませんか?”と冷静にお願いしました。
“話は聞くけど、もう仕事はこれきりだからね!”と先方はまだ興奮状態、しかし、取りあえずはもう一度椅子に座ってはくれました。

実はこの施工会社さんには、この見積書を作ってもらう前に、この工事で使う(オーナーのリクエストでもある)なかなか手に入らない特殊な材料を探し歩いてもらい、私自身も一緒にショールームなどに見に行ったりして、かなりの手間と時間を掛けていました(その入手先が分からないと値段も出せないので)。
特にその材料はいつも手に入るわけでもなく、あったとしても“時価”とも言える値段の一定しないもの、更に加工も大変なため、その材料が果たして使えるものなのか、又、それを使ってどのように造るか、という判断は施工会社さんのノウハウでもあり、その考え方によって金額にもかなりの影響が出る部分でした。
だからこそ信頼できる施工会社さんにお願いしたわけですし、結果として運良く見つけることも出来たわけですが、故にその見積書の中には、単に総工事金額だけを見て“高いの安いの”と言えないソフトとハードが詰まっていたのです(その席に、施工会社の方は同席していませんでした)。
そのように材料探しや施工方法の検証をすることにかなりの時間が取られてしまい、“見積書も持参せよ”と言われたこの打合せの日時をなかなか約束できず、オーナーに何度か延期のお願いをせざるを得なかったのですが、その際にもその理由として、そうした見積算出が難しい理由と経緯をご説明もしていたので、理解して頂いているものと思っていました。

私は、再度腰を下ろしてくれたオーナーに、もう一度その経緯を説明し、施工会社さんも単に見積を出すということだけでなく、ここへ至るまでにこれだけの苦労をしてくれているのだから、いきなり“金額がダメ”と言われるのは心外である、もし高いと思われるなら他でも見積を取っては如何ですか? という意味です・・・とお話ししたのですが、頑固なオーナーのこと、もう一切聞いては貰えませんでした。
要するに、私のことを信頼していつも優先的に仕事を出していたのに、“だったら他に頼め”という言いぐさは、その信頼を裏切る言葉だ、というのが彼の言い分。
彼の中では、施工会社さんの仕事と私の仕事の区別がなく、“ダメだ”というのは私に対する言葉(こんな数字を良しとして持ってきた私がダメという意味)であり、“他に頼めば”という私の言葉は、“私は嫌だから、他のデザイナーに頼んだら如何?”という意味にしか捉えられなかったようです。
その後、彼の話は過去の話に遡りました。
いわく、私の生意気な言動と態度にはいつも我慢して付き合ってきたこと、それでもいつも良い仕事をしてくれるから真っ先に私に依頼してきたこと、だけど、仕事は楽しくやりたいからもう我慢はしたくないこと、次には○○の仕事も頼むつもりだったけど(それは結構大きなプロジェクトだった)もう止めた、云々・・・
それが本当だとすると、そんな気性の激しいオーナーに“我慢をさせて”付き合わせていた私も私ですが、なんだか愚痴めいた子供の喧嘩みたいで、不謹慎ながらちょっとおかしくなってしまいました。

自分で振り返ってみても、多分、今までもそのオーナーが“我慢”しなければならないような、生意気な言い方を何度かしてきたのは事実でしょう。
実際、数年前のある仕事でも、ちょっとしたお互いの勘違いで意地になり、やはり彼を怒らせて“裁判する!”と叫ばせたこともありました(その時はある人に仲裁に入って頂いて、全面的に私が悪いと謝ったので、事なきを得ましたが)。
しかし、今回は“覆水盆に返らず”。もう取り返しが尽きませんし、私も今回に限っては“謝り”を入れるつもりもありません。
このことで施工会社さんには迷惑を掛けましたが(その“絶交宣言”の帰りに事務所に寄って、社長にご報告とお詫びをしました)、まだ実際にものを発注する段階にはなっていなかったので、実害は、私が何週間かデザインと図面に費やした労力と、施工会社さんが材料探しや見積に費やしてくれた労力のみ。
私が断ったのではなく先方が断ったことなので、まだ一銭も貰っていない設計料を諦めれば、先方から“契約違反”とかいわれる筋合いはありませんので、金銭面では誰にも迷惑は掛けない。
この時点で、全くの“終わり”なら何の後腐れもなく、それはいっそ、区切りとしてはグッドタイミングと言えました。
私自身、そして我が社にとっては、この仕事だけでなく、大事なクライアントの今後の仕事も失ってしまう大事件ではありますが、私は何故かせいせいした気分で全く後悔もせず、あまり落ち込むこともありませんでした。

何故なら、オーナー自身の言葉を振り返ってみても、今まで彼が私の仕事ぶりやデザインを評価して仕事を依頼してきたことは信じられますし、そうして結果的に満足できる空間を手に入れていたなら、“生意気に言いたいことを言う”という私の性格も、彼の役に立っていたはずです。
そして、更に分析すれば、こんなに難しいオーナーと十年以上もの長い間、付き合えた数少ない仕事関係の人間として、それはお互いが心のどこかで“気が合う”と感じていたからに相違ないとも感じています。
彼が言うように“我慢しながら仕事をしていたか”と問われれば、私自身にとってもそれは我慢の連続でもあったし、“仕事が楽しかったか”と問われれば、必要以上の緊張を強いられることもあり、実際、原因不明の不整脈に襲われたり、夢にまで“怒られるシーン”が出てきたりしたこともありました。
ただ、そのオーナーと仕事をすること自体は大変やりがいがあり、楽しくもありましたので、自ら“絶交される”ことを望んだわけでは決してありません。

確かに私の返答も良くなかったかもしれません。
私も、もしオーナーがいつものように“もうちょっと安くしてくれないかなあ”とかわいらしく言ったのだったら、“施工会社さんと相談して、努力します”と、答えたでしょう。
ところが、前述したような経緯があったので、単に見積金額だけに対する“ダメだね”という頭ごなしの言い方が、私に対してではなく施工会社さんに対して、その努力や協力姿勢を全く評価しないばかりか、“こんな数字では仕事を出してやらないぞ”という、あまりにも相手を見下すような態度が感じられたこと、そして本来なら“良い仕事”に対してそれに見合うお金を出すことを厭わないはずのオーナーが、まるでゲームのように値切り文句を言う繰り返しに、今回はどういう訳か拒絶反応を起こしてしまったのです。
もしその場に施工会社さんが同席していたら、私の態度も違ったものになったかもしれませんが、私が代わりに見積書を持参したばかりに、施工会社さんのことを思うあまりにそのように反抗的な態度を取ってしまい、結果的に施工会社さんの仕事を失くしてしまった、という矛盾する事態を生んでしまいました。
しかし、見積を出す以前であるにもかかわらず、一生懸命材料を探したり、施工方法を模索してくれた施工会社の担当者の方のことを考えると、瞬間的な反応とは言え、私にとっては決して“感情に走って我を失った”ゆえの態度ではなく、そうせざるを得ない行動だったのだと思います。

<後編に続く>




ここのところ、私が被った災難を通して感じたことなどを綴った文章が続いたため、何だか“ここって、本当にデザインをテーマにしたサイトなの?”と疑問に思われてしまいそうなので、そろそろ本題に戻らなくては・・・(って、一番長かったのはワールドカップのネタじゃないか!・・・と、突っ込んでください(笑))。
で、今回はデザインに関する話を書こうと思うのですが、その前に、前回と前々回の記事に対して“その道のプロ”の方達からコメントを頂きましたので、そのことについて少し触れさせて頂きます。
まず、そのコメントを以下に引用させて頂きます。

「 03.08.18 法律は誰のために」「03.08.26 この際なので」に対する現職の消防士さんからのコメント
件の文章を見させていただきましたが、大変すばらしい文章ですね。感服致しました。
さすがの文章力や表現力。そして綿密な取材・・・
私のようなプロが見ても違和感や矛盾は感じられませんでした。
何より我々の地道な努力への評価を頂いた上に、このような素晴らしい文章の題材にしていただけて光栄に思います。
その他のコンテンツにあっても、危機意識を持たれて、プロとして最高のお仕事をしようとする気概が、非常に好ましく感じられました。

さて、お隣が火災になって恐ろしい思いをされたという事ですが、我々プロでも火災現場は恐いですよ。
経験は豊富なのである程度先は読めるのですけど、やはり突発的なトラブルは必ず起きます。
我々は常に先を読み、最悪のケースを想定して行動します。
勿論PTSDになる消防士も居ますよ。
プロでさえそうなるのですから、一般の方の恐怖は相当なものでしょうね。
一日も早く症状が改善されるようお祈りします。

「03.09.09 そこには人がいる-----リスク管理とは?」に対する施工会社の現場管理の方からのコメント
ご無沙汰しています、足の具合いかがですか?
空・間・塾拝見いたしました。
火事に遭遇したりと大変なご様子の中、これだけの文章をホントに感心してしまいます。
現場を監理するには、ここに書かれている事が理想だと思いながら、しかしなかなか理想通りには行かないんです。
経験の中からトラブルを予想しながら工程を組み、すごく想像したり考えたりして、それでも予想外の事が起きてしまったり、起きてしまった事実にいかに対処できるか・・・
焦らず、慌てず、騒がず、まるで火事の時みたいに、どんな仕事でも一緒かもしれませんが、そんなトラブルを克服したときに自分のキャパが上がるのでしょうか。


このコメントを頂いたのがたまたま同じ時期でしたので、両方の文章を拝見する中で、偶然(ではないかもしれませんが)同じようなことに触れていらっしゃるくだりがあることに気が付きました。
それをちょっとピックアップしてみます。
「経験は豊富なのである程度先は読めるのですけど、やはり突発的なトラブルは必ず起きます。
我々は常に先を読み、最悪のケースを想定して行動します。」(消防士さん)
「経験の中からトラブルを予想しながら工程を組み、すごく想像したり考えたりして、それでも予想外の事が起きてしまったり、起きてしまった事実にいかに対処できるか・・・」(現場監督さん)

はからずも、全く違う職業の方が、“現場”について、同じような意識を持って向き合っていらっしゃる。
良く“現場は生き物”と言われるように、何の現場であれ、すべからく現場というものはこのように“起こりうることを最大限予想して、その対処方法をあらかじめ考えておくべき場所”、しかし“それでも予想外のことが起こる可能性が十分にある場所”ということなのだと思います。
こうした常に現場で働いていらっしゃる人の言葉というものには、現実の重みというか、現場で経験を積んできた者にしか口に出来ない真実が感じられ、感銘と尊敬の念を禁じ得ません。

この両者のコメントのキーワードは、“想定する”“想像する”という二つの動詞ではないかと思います。
“こうなることもあるかもしれない”と“想定”し、そうなった場合の対処方法をあらかじめ考えておく。
“こうしたらいいのかな、ああしたらどうだろう”と“想像”し、最善の方法を見つけだす。
ちょっとした言葉遣いは違っていますが、おそらく同じ意味のことをおっしゃっているのだと私は理解します。
いずれにしても、そうした現場で働く人、若しくは管理をする人には、危機管理の面においても、又は円滑に仕事を進める上においても、突発的な事態に臨機応変に対応する為に豊かな“想像力”が必要だということなのだと思います。

では、想像力とは何か・・・それは、一言で言ってしまえば“想像することが出来る能力”のこと。
今現在より先のこと、自分でない誰かのこと、ここではない違う場所のこと、といった、現実的に目に見えないものや目の前で起こっていないこと、不確定な現象などについて、いくつかの可能性を予想することが出来るかどうかということです。
つまり、時間、人、場所、自然現象といったシチュエーションが、もし一つでも変わった場合に、若しくは組み合わせが変わった場合にどうなるのか、又はどうなっていたのか、というシミュレーションを自分の頭の中でどれだけ出来るかという能力ではないかと思います。
例えば、“今の状況があと一時間続いたらどうなるだろう”“私が(又は誰かが)こういうことをしたら、どうなるだろう”“あの人だったら一体どんな気持ちでいるだろう”“もし、ここではなくあそこで起こったらどうなるだろう”などと考えることが出来るかどうか・・・

それは、シリアスな仕事の現場だけではなく、家庭生活や友人との付き合い、旅行や買い物、遊びの場、ネット上の掲示板、そうした日常の社会生活の全ての場面で、我々がごく当たり前のように向き合い、無意識のうちに考えていることであり、又、考えなければならないことでもあります。
そうした思考をするためには、その材料となる情報が必要であり(例えば一般的な社会常識とか、知識、対象となる人や物の性格や特質など)、それは年齢を重ねるのと同じように、様々な経験を重ねる中で増えていく情報なのでしょうが、しかし私は最近、ある程度の情報を持っていたとしても、その“想像力”の乏しい人が多いような気がして仕方ありません。

“ちょっと考えりゃ分かるだろうに・・・”という言葉を、私自身もそうですが、皆さんも良く口にしてはいないでしょうか。
例えば、現職警官が起こした万引きや痴漢といった犯罪(ばれたらクビ必至)、顧客の口座から何億円も引き出して使ってしまった銀行員(ばれないわけがない)、お酒を飲んで車を運転して事故を起こしてしまった人(事故を起こさなくても犯罪!)・・・そうしたニュースを聞く度に・・・
更に、悲しい事故(事件)ではありますが、炎天下に止めた車の中に幼児を放置して何時間もパチンコしている母親とか、寝たきりの老婆に何日もご飯をあげないで放置しておいた娘とか、そうしたニュースもありますね。
意図してそうしたのであればハナから立派な犯罪ですが、しかし、そうした事件の公判などで(もしかすると罪を軽減するための作戦なのかもしれませんが)よく耳にするのは、“死ぬとは思ってもみなかった”“ばれたときのことは考えなかった”という、見苦しいばかりの言い訳です。
もしそれが事実だとすると、私はそうした“想像力”のない人間が、一般市民と一緒に同じ社会で暮らしていることの方が怖い。
何故なら、そうした人達(いわば無邪気な犯罪者)のお陰で、何の罪もない人が事故や事件に巻き込まれ、危ない目に遭う危険性が非常に高いからです。
そうした意味で、特に危険な現場で仕事をする人、又、その人達を管理する人には、普通の人以上の“想像力”がなければ到底勤まらないのは当然のこと。
前回の文章にも書いたように、“こんなことをしていて事故が起きないわけがない”というようなことを、何の問題意識もなく続けている現場の作業員、またはそれを平然とやらせている管理職の人、そうした人達には“想像力が全くない”と言っても過言ではないと私は思います。

さて、我々デザイナーにも、“想像力”はなくてはならない資質です。
そもそも、我々の空間デザインという仕事は、何もないところから架空の空間を“頭の中で想像する”だけで創り上げていく仕事。
もちろん、模型を作ったり図面を描いたりはしますが、それはあくまでも実体として記録するための作業であって、人の頭の中は誰にも覗けませんから、デザインを考えている最中は、どんなものがその人の想像の世界で出来つつあるのか、誰にも分かりません。
そして、そうした本来の“存在しない空間を想像する”という能力以外に、必要なのは“相手(若しくは第三者)の立場になってその人の感じ方や気持ち、行動を想像すること”です。

具体的に言うと、我々はまず第一にクライアントの気持ちを想像しなければなりません。
クライアントは自分の要求や希望を100%言葉で伝えてくれるわけではないので、言葉に現れてこない“求めるもの”を想像することで見つけだし、そしてそれをデザインの中に反映させなければならない(もしくは逆にそれを否定してあげる・・・もちろん論理的に)。
次に、その空間や物が出来た後に使う人、つまりそこで暮らす人や働く人達、そこに訪れる一般消費者(いわゆるお客様)、そうした人達の取るであろう行動や持つであろう印象、感覚や心理も想像しなければなりません。
例えば、そこで働く人はどのような動線で歩くだろうか、この家具はどういう使い方をするのだろうか、又、お客様はまず何を見てどのように感じ、次にどう動くのか・・・そうしたことは、すなわち人間そのものを知ることであり、自分自身がどのような人間であるかも知っていなくてはなりません。

ご承知のように、私は桑沢デザイン研究所で商業空間のインテリアデザインの講師を勤めています。
その授業は実技科目なので課題を与えるのですが、まず適当なスペースを設定し、そこに“物販店であること”“三種類以上のアイテムは売らないこと”などの条件を与えてあとは自由にデザインさせるような内容とし、それを半年間でひとつのプレゼンテーションツールとして作成し、講評会を行なった後に提出させます。
何と言っても相手は“学生さん”なので、まあ、先生としての私の立場から見れば、ほとんどが“ユニーク”な発想であるのは言うまでもないのですが、その“ユニークさ”とは別の部分で、不思議に思うことがいくつかあります。

例:その1。
“10代後半から20代前半の若者をターゲットとしたカジュアルウェアのお店”なのに、外から全く中が見えない分厚い壁と不透明なドアだけのファサード、しかもその壁が真っ黒でショップサインも気づかないくらい小さく、まるで“会員制秘密クラブ”か“ぼったくりバー”のようなお店。
“何故こういうデザインにしたいの?”と聞くと、“最近、真っ白で中が丸見えのお店が多いから、あえて差別化するために、閉鎖的で入りにくいファサードにしました”との答。
“じゃあ聞くけど、明るくて入りやすいお店がいっぱいあるのは何故だと思う?”と、私。
“えーっと、多分、流行だからだと思いますけど”と学生。
“じゃあ、もうひとつ聞くけど、貴方がお客さんとして設定している若い人達って、あまりお金を持っていないわけでしょう? そういう人達が、外から全くどんなものを売っているか分からないお店に、入ってみよう、っていう気になるかな。 私だったら、このファサード、すっごい高い物しか売ってないようなお店にしか見えないし、第一何のお店か分からないから、怖くて入れないけどね”と言うと、
“でも、あらかじめインターネットとか雑誌で、何を売ってるのか情報が分かればいいんじゃないですか”とのこと・・・
具体的な平面プランの話に行く前に、まず、こうした部分から話していかないとならないのです。

例:その2。
ある平面プラン。道路に対して、隅っこに小さな入り口がある。
そのドアを開けると、両側を壁に囲まれた幅1メートルくらいの通路が奥に向かって続いている。
その通路を進んでいくと直角に曲がるコーナーがあり、そこを曲がると又しても両脇を背の高い什器に挟まれた狭い通路が続いていて、、その間を縫って歩いていく。
すると、又、曲がり角があり、一方向にしか進めない。
それが、ずっと奥まで延々と続く・・・(まるで、私にとっては思い出したくもない、あの宮城スタジアムのバス乗り場のように・・・)。
これは決して“迷路を作りなさい”という課題ではありません。
私は取りあえず“キレないように”ひとつ深呼吸をして、根気よく説明を始めます。
“まずね、ここからこの部分って、見通しが悪くて見えないでしょう? 例えばここで、お客さんがもし万引きしたり、転んで怪我したって、全く分からないよね? それと、火事になったらどうやって逃げる? 販売員さんも毎日、この長い迷路を行ったり来たりするの? 一番奥までたどり着いたお客さんは、又、延々と長い通路を歩いて帰っていくわけ?”云々、云々・・・
たった一言“あり得ないでしょう!”で済ますことが出来たらどんなに楽か、と思いながら・・・

以上、ほんの二例を上げてみましたが、こは決して“そうした学生が過去に2人いた”ということではなくて、比較的多いケースを取り上げたもの。
毎年毎年、こういうプランをしてくる学生が必ず、そして、かなりいるのです。
この二つの例は全く違うケースですが、どちらの場合にも欠けているのは、まず、不特定多数の人達が訪れる商業空間を創っているのだという意識。
それと、自分自身が、日常生活の中で色々なお店に出かけて様々な買い物をしているにもかかわらず、“自分がこの店の販売員や客だったら”という視点が全くありません。
一言で言うなら、まさに“想像力”が欠けているのです。

もちろん、学校で制作する課題というのは、勉強するという目的のための“絵空事”です。
卒業してすぐにデザイナーとして仕事が出来るようになるわけもないし、そんな人間を育てるのが私の義務でもありません。
実際に工事が出来ないような机上の空論的なデザインであっても構わないし、本来必要とされる商品量が満たされていなくたって、構わない。
しかし、単に形だけの面白さ(自分が面白いと思うだけのもの)を表現するために、紙の上やモニターの上で線を引いているだけの作業は“デザイン”とは呼べませんし、少なくとも私の授業では何の評価も与えません。
何故なら、このページでも何度も書いているように、デザインという行為は“機能を形にすること”。
住宅であっても商空間であっても、家具であっても食器であっても、“使う”為の機能が必ずあり、それを使う人達にとって機能する形であることが大前提です。
そうした他者への“想像力”が持てない人は、機能するデザインを考える“創造力”も持てるわけがない、と私は思います。

さて、ここで誤解を避けるために、“想像力”には2つある、ということをご説明しなくてはなりません。
今まで述べてきた“想像力”というのは、いわば、自分ではない他者に対する、若しくは他者との関係における想像力。
一言で言うと“社会的想像力”と言っても良いでしょう。
では、もう一つの“想像力”とは何かと言うと、それは、自分自身の内部における想像力、すなわち“空想の世界”と言い換えることも出来る“自己的想像力”です。
どんなに突飛なものであろうと、どんなに共感を得られないものであろうと、それが自分にとって“表現するべきもの”であるならば、人の目や感じ方などを一切気にせず、自由に膨らませて良い“想像力”。
それは、まさしく“アート”です。
芸術家が作品を創る上で必要なのは、こちらの“想像力”の方が大きい。
本来芸術に要求されるものは、他に同化しない希少性と独自の個性ですから、社会的常識に縛られていては良い芸術作品など出来るわけがないとも言えます。
アートとは、“使うため”のものではなく“鑑賞するため”のもの。
結果として“素晴らしい”と思うか“つまらない”と思うかは、それを鑑賞する人が決めることで、前もってニーズを聞く必要もないし、自分の創りたいものをただ表現すれば良い。
そこが、我々デザイナーとアーティストとの違いです。

しかし私は先に、デザイナーに必要な資質の部分で、“何もないところから架空の空間を、頭の中で想像するだけで創り上げていく能力も必要”であると書きました。
ここで触れている“想像力”は、“社会的想像力”ではなく“自己的想像力”の方。
そう、デザイナーには、アーティストとしての“想像力”も必要なのです。
何故なら、デザインという行為は本来“クリエーション”であり、他と差別化する目的を持つ行為である以上、自己の想像力を表現していく作業でもある。
当然ながら個人としての創作者の部分では“自己的想像力”がなければ、オリジナリティのあるデザインも出来ません。

一方、デザイナーは、アーティストのように自分で材料を調達し、求める人がいようがいまいが黙々と創作活動をし、作品を完成させて、さあ、買ってくれる人がいるかな、という仕事ではありません。
ひとつの仕事が作品として完成するまでには、まず、お金を出してくれるクライアント(イコール出来たものを使う人)がいて、図面を元に工事をしてくれる施工会社さんと職人さんがいて、と、必ず多くの人達と係わらないと成り立たない仕事なのです。
又、ひとつの物件において、総合的に予算を監理したり、スケジュールを監理したりという、監理業務もしなければなりません。
ですから、そこに自分以外の“他者”との関係がある以上、“社会的想像力”はどうしても必要なのです。

要するに、我々の“デザイン”という仕事は、独自性と社会性という二面性を持っているものであり、どちらにおける“想像力”も大切で欠かせないものだと言うこと・・・
だからこそ、やりがいもあるし面白い仕事である、と私は思っているのですが・・・これを読んだ学生の方達は、混乱してしまいましたか?
分かりづらいようでしたら、又、改めて別の機会にお話ししましょう。



又しても私事で恐縮ですが、先日、ある現場で足首を捻挫してしまいました。
隣家の火事騒ぎと言い、今回の怪我と言い、最近、何だか災難続きです。
幸い、怪我は大したことはなかったのですが、現場でのこのような経験は初めてでしたので、今回の舞台となった現場のことから、仕事における“リスク管理”について書きたいと思います。

詳しく書くのは控えますが、怪我をした現場というのは、私にとってメインクライアントのあるブランドの路面店で、ショップ部分が2層の100坪という規模。
新築ビルなので建築工事と内装工事が同時進行で進められ、ファサードや階段、設備工事などゼネコンに依頼する工事も多く、現場工期もほぼ2ヶ月、設計期間を含めると半年あまりという、まあまあ大きなプロジェクトです。
内装工事に関しては、数社の競合入札の結果、いつも付き合いのあるクライアントの子会社の施工会社に決まりましたが、実際に工事を担当するメンバー(いわゆる下請けさん)にはあまり馴染みがなく、このような大きな物件を一緒にやるのは初めてのことでした。

この現場は1階から地下に降りるようなアプローチになっていて、その為の階段を、構造は建築、仕上げは内装工事で新たに造ります。
私が捻挫した時の現場の状況としては、すでに内装工事もほぼ70%位出来上がっていて、全体像が見え始めたような段階。
その日、私は1階から現場に入って、地下に行くためにすでに骨組みは出来ている鉄骨階段を下り始めました。
途中まで下りて、養生シートが貼ってある踊り場へ一歩足を踏み出したとたん、グギッ!・・・右の足首が外側へ不自然に曲がり、尻餅を付いてしまいました。
激痛に息も出来ない中で何故そうなったのかと見回すと、その踊り場のちょうど真ん中あたりに、縦方向に7センチくらいの段差があり、運悪くその段差の上を踏んでしまったのでした。
縦割りの半分部分は石を貼ってあって、もう半分はまだ貼っていなかった(石を貼ると下地+石の厚みで5〜7センチくらいの貼りしろが必要です)、その状態の上に、踊り場全体を覆い隠すように薄いシート一枚だけが貼られてあったため、その段差が見えなかったのです。
そのままタクシーで救急病院行きという羽目になり・・・結果は、細かい靱帯はやられているものの幸い骨には異常なく、いわゆる捻挫で済んだのですが・・・しかし、1週間経った今でも腫れはひどく、しばらく杖なしでは歩けない状態になってしまいました。

現場の施工会社の担当者は、慌てて飛んできて病院まで付き添ってくれましたが、私にしてみれば、これは“私の不注意”が原因で起きた事故ではなく、“起こるべくして起こった事故”だと思いました。
何故なら、まず、石貼りなどの床の養生は、通常固いベニヤ板でするのが常識。
シート貼りだけというのはありえませんし、まして工事途中で半分しか仕上げていないような状況では尚更、というよりも、そもそも今まさに石を貼っている途中なら養生自体しません。
しかも、その段差がちょうど人が歩く動線の真ん中!
私が足を取られたのは、誰もが歩くところに“シートで隠されていて”段差が見えなかったことが一番の原因であり、もし石を貼った半分だけに養生がしてあったら、若しくは何も養生がなかったら、明らかにその段差に気が付いて避けて通ることが出来たはずです。
これは、あたかも落とし穴を落ち葉で覆って見えなくするのと同じようなもの。
工事中の現場では、例えば透明なガラス面に“ガラス注意”と書いたり、手すりのない吹き抜け部分にテープを貼って“落下注意”と書くのと同じような、注意・警告の対象であるべき危険箇所です。
その“危険箇所”をわざわざ隠すような真似をしたのですから・・・事故が起こって当然だった訳です。

実は、そうした経緯には伏線がありました。
内装工事が始まって1ヶ月くらい経った頃、現場はまだまだぐちゃぐちゃの状態で色々な職種の業者さんが入っていて、その中で床の石貼りも同時に行われている最中、私は石を貼り終わった部分の床に養生をしていないことに気がつきました。
部分的にはベニヤ板が貼ってありましたが、結構人通りが多い動線となっている部分に、貼ったばかりの石がむき出しの状態だったのです。
これでは石に傷も付くし、工事中の汚れが取れなくなってしまう・・・仕上げたものに養生するのは工事の原則ですし、こんなこと本来はデザイナーが言うべきことではないのですが、折角造ったものが工事途中の傷で台無しになるということほど悲しいことはありませんので、見かねてすぐに養生するように注意しました。
そのことがあったので、それ以降、多分現場監督の頭には“養生、養生”ということがあり、特に私が現場チェックに来るということで、同じ注意をされないように気を遣ったのでしょう。
ただ、その“養生の仕方”、もしくは“養生のあり方”が正しくなかったため、裏目に出てしまった、というわけです。

さて、以上のような私が体験した事故の類は、その当事者(すなわち怪我をする本人)にとっては、生活している以上常に起こりうるもの、仕事中であろうがプライベートの時間であろうが、例えば交通事故に遭ったり、ガンになる可能性と同じく、すなわち生きる上でのリスクと言えます。
先日の隣の火事も同様、まず自分自身が、自分の身にそうしたことが起きないように普段から気を付けて予防をし、その上で巻き込まれないように祈ることしか出来ません。
そして万が一、不可抗力であれ自分の不注意であれ、そうした事故が起こってしまった場合のために、保険に入るとかするわけで、それが個人にとっての“リスクヘッジ”ということになります。

逆にそうしたシチュエーションを作り出す側、例えば今回の施工会社のような立場からすると、そうした事故は何の予防の手だてもしない場合、かなりの確率で起こりうるものであり、事故が起こらないように管理しなければ防げないリスク、すなわち組織としてのリスク管理(特に安全管理)が必要な部分です。
リスクマネージメントのコンサルタントである田中辰巳さんという方が、以前週刊誌に書いていらしたものを読んだのですが、そうしたリスク管理には二つの面があって、第一にはまず“起こらないようにすること”、第二には“起こったらどうするか”という両面で考えること、企業のリスクマネージメントとはそのどちらも欠けてはならないもの、ということです。

およそ全ての企業・組織の、何らかの生産現場、製造現場、又は人の生命に関係する現場では、すべからく安全管理が必要です。
もし、第一の“起こらないようにすること”、つまり予防がなされていない場合、まず十中八九、事故は起きます。
例えば、東海村の原子力発電所で起こった臨界事故などは、後に報道された“バケツでウランを注入していた”などという習慣化された作業の仕方を聞くと、あの事故は全く起こるべくして起こったものと言えますし、雪印乳業の食中毒事件についても“一度廃棄処分になった牛乳を再出荷”していて、知らずに飲んだ人が食中毒にならないわけはない、と思います。
最近あった三重県のゴミ固形燃料発電所の爆発事故でも、今年の初め頃に同じタンクで火災が起きたときに消防署に連絡せず、自分たちで勝手に、危険な化学反応を起こす“ドライアイス”を大量に投入して消火していた(実際には鎮火していなかった)という事実が判明しました。

いずれも、ど素人にだって十分予知できるほど“起こらないはずのない”事故と言えます。
しかも、すべからく、組織としての(言い換えれば経営陣の)その後の対応が、又、悪かった。
まず、そうした事故の事実と原因を隠蔽しようとし、隠しきれないと分かると、(上層部は)いち担当者の責任にして自分は知らなかったと言い訳したり、逆に開き直る。
“私だって寝ていないんだ!”と記者にどなった雪印の社長のせりふは、知らない人がいないくらい有名になってしまいましたし(永遠に語り継がれることになるでしょう、馬鹿な企業トップの言葉のランキング上位として・・・1位じゃないのは、その他にも似たような人はいますからね)、三重県の発電所火災では、その数ヶ月前の“素人による消火活動”を隠蔽したまま、行政も一体になって消防に放水を命じ、その結果、爆発を誘発して尊い命を奪う結果となってしまいました(今は、メーカー、行政、消防の三者が責任のなすり合いをしているらしいです)。

そして、そうした事故が起こるたび、何度も耳にしたような気がするのは、事故の後の会見での“あり得ないことが起こってしまいました”というせりふ(公務員の不祥事の時などにも聞きますよね)。
あたかも“万全の安全管理をしていたのに、全く想定できない事故が起こってしまったので、私達の責任ではありません”と、まるで、震度10くらいの地震が来たので仕方がない、と開き直っているように聞こえます。
(前代未聞のあの阪神大震災の時にも“震度6の直下型地震など想定していなかった”という言葉を、ゼネコンや道路公団の人などから聞いた覚えがあります。しかし、これは私が実際に現場で目にした事実ですが、半倒壊したビルの挫屈した柱のコンクリートはグズグズの隙間だらけ・砂利だらけでしたし、鉄筋は錆びて途中で継ぎ足してありましたし・・・それと、そうして無残に倒壊した高速道路や建造物に限って、いち早く解体・撤去してしまったのは何故?)
“あり得ない”という言葉が、一体何を基準にして言っているのか・・・そこのところが問題です。
いわく、“この設備の設計基準を上回らない被害であれば、あり得ない”のか、“安全管理のマニュアル通りに作業していればあり得ない”のか、“作業員がミスをするなんてあり得ない”のか・・・
しかし、どの事故も、どこかで誰かが作業効率を上げるために“手を抜き”、材料費を浮かすために“使い回し”をし、疲れや気の緩みのためにうっかりと“ミス”をしたことで、起こってしまったもの。
どんなに立派な“管理マニュアル”や“安全対策”を作成したって、これでは何の役にも立ちません。

田中辰巳さんの文章によれば、リスク管理というのは、まずあらゆるケースを想定して事故が起こらないように予防を徹底することが最優先だが、その“あらゆるケース”というものの中には“人が起こすミス”という要素も含めなければならない、ということです。
言い換えれば、“人は必ずミスをする”という事実。
すなわち、マニュアル通りに作業しなかったり(いわゆる手抜き)や作業員がミスをしたりと、そういう可能性もあるという前提に立ってなされる安全管理こそが、真の安全管理であり、リスク管理である。
そしてそこから、“マニュアル通りに作業を徹底させるにはどうしたら良いか”“ミスを起こさないようにするにはどうしたら良いか”という、“もともと完全でない人間”が事故を起こさないための“安全管理”が出来る、という訳です。

機械や設備は、あくまでも人が動かし人が管理するものであって、正しく使用していさえすれば、そのもの自体がミスを犯すことはありません。
機械や設備に感情はなく、日によって体調の善し悪しもないので、定期点検やメンテナンス、清掃などを行い、過剰な負担を掛けず、それこそマニュアル通りに使用してさえいれば、きちんと結果を出してくれます。
問題は、“動かす人間”の方にあるのです。
そして、その人間はというと、日によって気分が良かったり悪かったり、体調が良かったり悪かったり、悩みがあったりなかったり、と、それこそ常に一定でなく、予想がつかないやっかいな生き物でもあるのです。

話を戻しまして、今回の私の現場での事故については、そうした部分でも“起こるべくして起こった事故”と言うことが出来るのではないか、と私は思います。
同業者、若しくは施工関係の人ならどなたも経験があるでしょうが、我々の携わっている内装工事、特に店舗関係では、時間がない現場、すなわち満足な設計期間や工事期間が与えられない物件、というのがほとんどです。
仕事の依頼が来たとたんに、オープン予定日、時には現場で工事できる期間までもが決められてしまい、そして、そこから逆算してどうしても発注しなければならない期限を割り出し、今現在からどのように作業していけばその日に発注できるのかを組み立てて行く。
当然、現場工事や工場での製作物に必要な日数は確保しなくてはならないので、下手すると設計期間が削られて“時間がない”影響が全て我々デザイナーのところへ来てしまい、日曜日も休めず毎日夜中まで図面描き、という状況になってしまうことも度々です。
まあ、これは我々の業界の宿命でもありますし、施工業者さんも、現場で徹夜などということもままあるわけですから、お互い“因果な商売”と励まし合うしかありません。

今回の現場は新築のビルだったため、前述したように、現場での工程は2ヶ月ほど取ることが出来ました。
しかし、面積も広く2層の現場ですし、建築や設備工事との絡みもあり、その作業量は例え2ヶ月の工期があっても1日も休めないほどぎりぎりでした。
現場監督も2名常駐していましたが、監理範囲も内容も多く、その気苦労も労働時間も半端ではなかったと思います。
そして、内装工事現場の常として、最初はつつがなく進むはずだった工程も、ちょっとしたミスや狂いが生じると、途端にせっぱ詰まった状況になってしまいます。
この現場でも、ゼネコンの工事の遅れやちょっとしたやり直しなどで、工程の半分ほどの段階ですでにかなり“せっぱ詰まっている”感じが見て取れました。
そして、この“せっぱ詰まった状況”というのは、当然現場自体がなるのではなく、そこで働く人間が“せっぱ詰まる”ことを意味します(良く我々は、“テンパッてる”、と言いますが)。
当初はそうした段取りではなかったはずが、前の工事がずれ込んだため、一度に何種もの職工が現場に入らざるを得なくなり、その為に現場は煩雑になって片付けも満足に出来ず、監督の目も行き届かなくなり・・・というよりも、監督自らが雑多な作業をせざるを得なくなり、デザイナーが現場に行っても満足に話が出来る余裕すらない。
床の石貼りの養生が出来なかったという状況もこうした中で生まれたものですし、階段踊り場の養生の件も、誰かに指示はしたものの、その確認をすることも出来なかったのだと思います。

現場監督のあり方、というものについて、私が懇意にしている別の施工会社のベテランの方が言った言葉を引用します。
「現場監督って言うのは、本来は決して自分は手を出しちゃいけない。どんなに時間がなくても、どんなに職人さん達が大変そうでも、自分が手伝ってしまってはダメ。
何故なら、自分が何か作業をしてしまうと目先のことだけに囚われてしまって、視野が狭くなってしまう。
現場監督っていうのは、現場全体を大局で捉え、常に俯瞰して見ていなければならない仕事だから、自分が”現場仕事”をしてしまうことによって、他の部分に目が行き届かなくなってしまう恐れがある」

これは、まさしく先日の隣家の火事で目にした“消防隊”の組織だった統率行動にも見られるシステムであり、軍隊やスポーツチームなど、複数の人間が1つの目的に向かってチームプレーをする際には、ごく当然のやり方と言えるものです。
そして彼は、何故“現場がいつも綺麗でなければならないのか”ということについても、話してくれました。
それはまず第一に、朝、職人さん達が現場に来たときに、足の踏み場もない汚れたままの現場では、その日一日の仕事をする気分が全く違う、ということ(彼は職人さんではないので、“・・違うはずだから、出来るだけ気持ちよく仕事をして貰いたいので”というニュアンスでした)。
そして第二には、現場が常に綺麗であると、事故が起こりにくいということ(それこそ、何かの下にものが隠れていたり、工具に躓いたりということがない)。
第三には、現場が常に綺麗であると、もし納まりや寸法などに間違いがあっても監督が間違いに気付きやすいので、その発見が早ければ早いほど修正もしやすくなるから、ということです。
-----ちなみに、施工会社の方にちょっとした秘訣をお教えしますが、引き渡しの時に“綺麗に掃除されているかどうか”というのは、我々デザイナーのチェックの点数が大きく違います。掃除されていない状態で引き渡しをすると、綺麗に作られたものでもそうは見えなくなるし、当然点数は辛くなりますので、例え工事が完了していなくても、とりあえず引き渡しの前には一回清掃をすることをお勧めします-------

上に書いたこの施工会社の方の言葉の中には、前述した“リスク管理”の全てが凝縮されているように思います。
まず、現場には、全体を把握して常に広い視野で監理する立場の人間が必要である、ということ。
そして、その人間は、現場という“物”を監理するのではなく、そこで作業をする“人”を(例えば気分良く働けるように、例えば事故や間違いを起こさないように)監理する、ということ。
そして、そうした立場で管理している人がいる、ということで、作業する人達も安心して自分の仕事に専念できる。
彼は又、こうも言っています。
「我々の仕事は、職人さん達がいかに気持ちよく働ける現場を作ってあげるか、ということだから。だって、気持ちよく働いて、良い物を造ってもらって、早く仕事を終わらせてもらうってことは、結局、我々の得になることでしょう」
人を管理するということは、決してその人達を信用しない、ということではないと思います。
企業内の管理職も含めて、管理する側の人間のやるべきことは、そこで働く人達の能力を最大限発揮してもらう、その為に安心して作業できる安全な環境作りをしてあげることではないでしょうか。

今回の現場では、現場監督の上に、発注業務やスケジュール、予算を管理する製作責任者がいて、その上には営業窓口となる元請け会社の担当者がいて、更にその上に“部長”がプロジェクト責任者として組織表のトップに名を連ねてもいました。
しかし、製作責任者は、やはり後半の方では一緒になって毎日現場で汗を流さざるを得ない状況となっていましたし、元請けの会社の担当者が現場に来たのは1,2回、部長に至っては完成間近にやっと一度現場に来ただけでした。
今回のプロジェクトでは、結果的に、現場監督の経験値やキャパシティの点で、本人にもちょっとかわいそうな状況(私の怪我ではなく、現場での苦労の面で)となってしまいましたが、私は彼には何の罪もないと思っています。
こうした元請け+下請けのシステム自体にも問題はありますが、元請け会社の意識が一番の問題で、要は、そもそもこのようなプロジェクトの組織表を作った人間、自分たちのキャパと仕事の内容を甘く見ていた人間、現場に一度も顔を出さずに下請けに任せきりにしていた人間、工事契約を取ったらそれで自分の仕事は終わり、と思っている人間に責任があります(本人は全くそうは思っていないでしょうけど)。

少なくともプロジェクト責任者として名前を連ねているのなら、例え工事のことは分からなくても、毎朝(朝というのが大事です)一度現場に顔を出して、そうしたせっぱ詰まった空気を察知し、現場にいる人達が気付かないこと(例えば、もっと掃除をしろとか、あの工具を置きっぱなしでは危ない、とか、あそこの養生はまずいとか)に気付いて指摘してあげたり、人手が足りないのならバイトの人員を増やすようにアドバイスしてあげるべきでした。
皆が大局を見る目を失っているとき、冷静に現場を俯瞰できる人間、それこそ“皆の視野が狭くなっているな”と気付くことの出来る人間さえいれば、私の事故も未然に防げたはず。
そうした意味で、“起こるべくして起こった事故”だと私は思うのです。
逆に言えば、もっと大きな事故が起こったって不思議ではなかった、その点ではまだ幸運でした。
ちなみに、元請け会社の部長が事故の件で私に連絡してきたのは、事故から4日も経った後のことでした。

どんな仕事の現場も、必ずそこには人がいます。
皆が感嘆する素晴らしい作品も人が作り上げるものだし、突然崩壊する建造物も人が造るものです。
事故を起こすのも人間なら、事故に巻き込まれるのも人間。
たまたま今は起こらないだけで、いつ起こってもおかしくない“人災”は、実は我々のすぐ近くに潜んでいるのかもしれません。
張りつめた糸はいつか切れるもの、しかし、ゆるみっぱなしの糸ではかえって危険です。
ゆるみもせず、張りつめもしない、適度な“ゆとり”を持って仕事をすること、若しくは仕事をしてもらうことが何よりの予防となります。

そこには人がいる・・・そのことが理解できない会社は、当然きちんと人を管理することも出来ませんし、リスク管理など出来るはずもありません。
そんな会社に命を預けようと思う人などいなくなるし、リスクだけを押しつけられて何の保護も得られないなら、仕事を請けてくれる下請け会社もいなくなるでしょう。
もういい加減、“人は目先のお金で動く”などという妄想は捨てるべきですし、現に通用しない時代になっています。
少なくとも我々デザイナーや施工会社も含めて、物をつくる人間は、そうじゃないことを態度で示していくべきだと思います。
具体的には・・・そうですね、まず“あり得ないほど”時間と予算がない仕事は断ることから始めましょう!



昨日、ショッキングな出来事がありました。
なんと、事務所の隣の家が火事になったのです。

まずその隣家との位置関係をご説明すると、うちのマンションは細い一方通行の公道に面した狭い私道の突き当たりにあるのですが、その私道の入り口の脇に昨日火事になったアパートが建っています。
その私道は単にうちのマンションに入るためだけの通路のようなもので、幅2メートルくらいしかありませんし、元々どちらの敷地も一人の地主さんが所有している土地なので、どちらかというと、同じ敷地内に建っている隣り合った建物、という感じ。
そのアパートの南側にうちのマンションが建っているという位置関係なので、うちのマンションに面して大きな履き出し窓があり、1階はちょっとした庭、2階は奥行き半間ほどのベランダが付いています。
そのアパートは古い木造二階建てで、所有者であるお年寄りの女性が2階に住んでいて、1階を今は独身の女性に貸しています。

火が出たのは、その2階の部屋でした。
土曜日でしたが、私はひとりで仕事をしていました。
雨で気温も低かったため窓は閉めていたのですが、夕方5時頃、何となく焦げ臭いような臭いがして南側の窓を開けたところ、確かに何かを燃やしているような臭いがしました。
南側の景色には何の異常もなかったので、こんな雨の日にまさか焚き火でもないだろう、と思ってドアを開けて外に出たとたん・・・うわっ!
なんと目の前のアパートの窓から、大量の煙と火がぼうぼうと噴きだしているではありませんか!
まだ消防車も来ていず、誰も大声で叫んだりしてもいず、ただ静かに燃えている、という異様な感じ。
もうすでにかなり火は回っているのに、全く気が付きませんでした(誰も私には教えに来てくれなかった!)。

あいにく、スタッフも1時間前くらいに帰ってしまって、私たったひとり。
うわっ!どうしよう、と思う間もなく、いきなり血の気がすうっと引いて、頭の中はフリーズ状態。
まず思ったのは、“猫!猫をなんとかしなきゃ!”ということ。
実は、私は事務所で2匹、猫を飼っています。
更にその時は、その他に事務所に毎日出入りしている外猫が2匹、中にいました(なぜそのような数の猫を飼うはめになったのかは、ここでは長くなるので触れません)。
以前より、もし火事などの災害になったときには、猫をとにかく外に出せ、と獣医さんにも言われていたのですが、家猫は全く外に出たことがなく大変臆病なので、私は、いざとなったら全部ケージに入れて運ぶしかないと思っていました。
ところがいざそういう状況になってみると、猫も何か普通じゃない危機感を察するらしく、外に出した外猫も戻ってきてしまうし、中の猫も手の届かない隅っこの方に逃げ込んでしまって、1匹たりとも捕まえることが出来ない。
私はただ行ったり来たりうろうろするだけで、そのうち時間ばかりが経ってしまい、“そうだ、私が逃げなきゃ”と、とりあえず猫が自分で出られるように窓を開けたまま、お財布の入ったバッグだけ持って外に飛び出すと、もうドアの外は目も開けられないほどのすごい煙。
階段を下りると、すでに消防隊の人が来ていて、二方向からの激しい放水が始まっていました。
幸い、ここのところずっと雨が続いていて昨日もかなりな雨降りだったこと、風がなかったこと、又、うちのマンションは隣とは言えそのアパートから建物本体までは5メートルくらいは離れていたので、見たところ類焼の恐れはないようでした。
公道の方まで逃げようかと思ったのですが、階段の下にいた消防隊の人が“危ないからそっちに下がっていてください”と反対側を指さすので、“うちの建物は大丈夫なんですか”と聞くと、“こっちは大丈夫ですよ”と言うので少し安心し、階段の下で消火活動をただ見つめていました。

出火元の人は、80歳は越えていると思われるおばあさん(実は、今日聞いたところによると、何と92歳だった!)で一人暮らし、近くに義理の娘さんがいるらしいのですが、ほとんど姿を見かけることはありませんでした。
少し足が悪く、いつも杖をついたり歩行器のようなものを押しながら、買い物などに出かける姿をよく見かけました。
2階に住んでいるので、出かけるときに一段ずつ苦労しながら上り下りしているのを見て、“自分のアパートなんだから1階に住めばいいのに”といつも思っていたものです。
たまにうちの外猫にベランダからエサをくれたりしているらしいのですが、私自身は、一度もきちんとお話ししたことはありませんでした。
ただ、嫌な予感というか、そんな風に足も悪いのにたった一人で暮らしていて、“何かあったらどうするんだろう”と人ごとながら気にかけてもいましたし、下の階に住んでいる女性とは何度かお話ししたことはあるのですが、その方もいつも心配していたようです。
で、今回も真っ先に“おばあさん、大丈夫だったのかしら”と思って、消防隊の方に聞きましたら、“やけどをしているので救急車で運ばれたけれど、意識もあるし大丈夫”とのこと(後で下の階の女性から聞いたところによると、彼女が助け出してあげたとのことでした)で、ほっと胸をなで下ろしました。
出火原因については、夕方という時間帯だったので台所からの出火かと思ったのですが、これも今日消防隊の人に聞きましたら、蚊取り線香の火が布団に燃え移ったらしい、ということです。
夜中の寝ている時間帯じゃなくて幸いでしたが、1階の人も在宅していたにもかかわらずすぐに逃げられて、本当に大したけが人も出なくて良かったです。

しかし、火事、本当に恐いです。
このあたりは名前だけは一等地ですが、実は築40年は経っている古い木造家屋の多い場所です。
数年前に、200メートルくらい離れた商店街で、やはり古い木造の中華料理店が全焼したことがありますが、その時も何ブロックも離れているにもかかわらず火柱が赤々と見えて、大変恐い思いをしました。
まして今回は、目の前。
はっきりと思い知らされたのは、まず第一に、人間パニックになるとほとんど何も出来ない、ということ(自分のことです)。
たった一人だったこともありますが、私はただ、電話の子機を手に持ってうろうろ、うろうろするばかり(そのくせ携帯電話はどこかに置き忘れているのです)。
何を持ち出そうか、なんて全く考える余裕すらありませんでした。
(あとで事務所のスタッフから、“まずコンピューターでしょう”と言われて、全くそんなこと考えもしなかった自分に驚きましたが)。
そして次に、これは意外な発見だったのですが、木造とは言ってもモルタル仕上げの外壁は結構強い、ということ。
窓ガラスが割れて火は吹き出しましたし、ベランダのプラスチックの屋根や金物は見るも無惨に溶けてしまい、鎮火した後に見た内部は柱も壁も天井も全て真っ黒に燃えてしまってはいますが、外壁はほとんど燃えも壊れもせずにそのまま残っています。
隣接した建物やうちのマンションが類焼しなかったのは、火元のアパートの外壁が一応モルタルで仕上げられていたからでしょう。

そして・・・まず普通の人間がこんな経験をする機会が滅多にないので、私自身初めて目にした為だとは思いますが、それは感動といっても良いほどの、消防隊の人達の統制の取れた素晴らしい働きぶりと頼もしさ。
こんなに小さな(と言っては何ですが)現場に、おそらく30人以上はいたでしょうか、指揮官は下でどんと構えて、冷静に状況を見ながら指示を出し、隊員達は皆、まだ火が燃えているのに建物の中に入り(その時点ではおばあさんがまだ中にいて、救出するためなのかと思っていました)、中には天井裏に頭をつっこんで、煤だらけになりながら屋根を破って顔を出している人もいるし、かと思うと、隣の家の中から放水している人もいる。
そこまでの状況になるのに、私の感覚では(あまり当てになりませんが)到着してからほんの10分くらいの間のことです。
そして、火はその後15分ほどでほとんど消え、あっという間に白い煙だけが立ち上るようになりました。
それから更にしばらく後、すっかり鎮火して私道が通れるようになってから外に出たのですが、公道には“立ち入り禁止”の黄色いテープ(例の、W杯の際に仙台のスタジアムでお目に掛かったものです)が張られ、私道を出たすぐのところに机が2台並べられていて、指揮所のようなものが出来ている。
片方には地図か図面のような紙が広げられており、現場監督のような人が2人机に向かっています。
その傍らにはもうひとつ台が置かれて、その上に給水機(水の入ったポリタンクが付いている)が2つ乗っていて、どうやらそれは消火活動中の消防士さん達の水分補給のためのようでした。
燃えている最中には公道に出られなかったので分かりませんが、多分、どちらも到着と同時に設置されたものでしょう。

そして更に驚いたのは、鎮火してから現場を見ましたら、1階の部屋の主立った家具などの上に、大きなビニールシートがかけてある。
これは、少しでも水の被害を少なくしようというために消防隊がかけたものであり、当然ながら放水開始の前に行われたものに違いありません(あの激しい放水の中ではシート自体はあまり役には立たないでしょうが、その気遣いがうれしいではないですか)。
これだけのことを、あっという間に行なってしまう消防隊の人達。
しかも、慌てることなく全く冷静沈着に、システマティックに。
その後、外から見て火はもう全く消えたように見えても、消防隊の人達はまだずっと作業しています。
放水もまだ続いていて、時々“火、残ってる、あっちの方、もっと、そっち!”とか、叫ぶ声が聞こえます。
火というのはそれほどしつこいものらしく、特に屋根裏などに少しでも火が残らないようにと、入念にチェックしているようでした。
出火したのが午後5時頃、消火活動自体が終わったのは9時頃、そして簡単な現場検証や更なるチェックを終えて消防隊が帰ったのは、もう夜の11時を回った頃でした。

そして、深夜をまわった頃。
外に出たまま帰らない猫を呼び戻すために外に出ましたら、真っ暗な火事現場のまわりに懐中電灯の揺れる灯りが・・・・うわっ、こんな時間に何だ、泥棒か!?と一瞬どきっとしたのですが、そのうちその灯りが私の立っている階段の方に近づいてきて、姿を現したのは消防服を着た人、2人。
“えっ、まだいたんだ?”と驚きましたが、“お疲れさまです”と声をかけると、“明日の朝まで用心のために消防隊が見回りしてますから”との言葉。
不謹慎ながら、その人の声が又、渋いバリトンで(残念ながら顔はよく見えなかった)何とも頼もしく、思わず“有り難うございます”と頭を下げてしまいました。
今日も朝から、少なくとも10人以上の消防隊の人達が、今日は普通の制服(ブルーの作業服)で来ていました。
警察の人も来ていましたので、午前中は多分詳しく現場検証をしていたのだと思いますが、午後になると屋根の上に何人も登って、上から下から何か作業しています。
2階部分はほとんど全焼に近く、どうせもう壊すしかなさそうな有様ですし、消防隊の仕事は火を消して原因を突き止めて終わり、かと思っていたのですが、何と彼らは、一部焼け落ちてしまった屋根の穴から雨が中に入らないようにと、ビニールシートをかけているのでした。
それも消火活動の際と同様、下(今日はうちのマンションの踊り場でしたが)に指揮官(大隊長という人らしい)がいて、その指揮官が隊員達に“あまり大勢(屋根の上に)乗るなよ”“アルミの上は乗るな、弱いから”“ちゃんと隅でアールを取って垂らさないと雨が入るぞ”“落ちるなよー(当たり前じゃ!)”などと指示をとばしています。
“へえー、消防隊の仕事って、こんなことまでするのか・・・”と驚きました。
結局、ほんの10坪ばかりの建物の火事に、延べ7〜80人もの人数で、全ての作業が終了するまでまるまる2日がかり(明日も何かあるのかは分かりませんが)・・・本当に大変な労力。
いくらそれが仕事、とは言え、いくらその為の訓練を積んでいるとは言え・・・そのスピード、段取り、組織的統制、そして事後のケアまで・・・日本の消防隊、すごいです。
はっきり言って、私、惚れちゃいそうでした。

消防隊の活躍については、以前“プロジェクトX”でホテルニュージャパンの火事の時のことを取り上げていたときにも、言葉を失うほど胸を打たれましましたし、最近では記憶に新しい例の歌舞伎町の雑居ビル火災の時にも、ほんの少しニュースで見た映像だけですが、何人もの死体を運び出さなければならないその悔しさ、無念さは察するに余りあり、辛い仕事だなあ、と心より思いました。
今日ちょっと立ち話した“大隊長”さんも、“しかし、おばあさん、良かったねえ、無事で”と真っ先におっしゃったのです。
最近たまに現場で亡くなる消防士の方のニュースを耳にするに付け、本当に、我々市民を命がけで守ってくれる存在であり、決して“仕事”という意識だけでは出来るものではないと感じますし、頭の下がる思いで一杯です。
もちろんどんな現場も同じ緊張感と心構えでもって臨むのでしょうし、悲劇という点では、火災に大小のランクはないのだとは思いますが、死者まで出たそうした大火災の現場に比べれば、昨日の火事では幸い重傷者もなく、彼らにとっては気持ちの上では楽な現場ではあったでしょう。
しかし、本当にひとたび火災が起こってしまったら、我々は全く為す術がなく、全てを、こうして日々“火”と戦っている消防隊の人達にゆだねて助けて貰うしかない、ということ、そして、原因がほんの不注意だろうと、意図して行われた放火であろうと、彼らは例えどんな現場でも真っ先に人を助け、危険を承知で火の猛威に立ち向かっていく人達なのだ、ということを、今回の火事で改めて思い知らされたのでした。

さて、このように私は(というよりも多分ほとんどの人はそうだと思いますが)今まで生きてきて、実際の消防隊の人達の仕事ぶりについては、全くと言っていいほど詳しい知識がありませんでした。
ある意味、あまり“詳しく知る機会”など訪れて欲しくないというのが希望でしょう(だって、その時は火災の当事者かすぐ近くにいる人間である訳ですから)。
しかし、我々建築やインテリアを仕事としているものは、実は、消防署とは非常に縁が深いのです。
それは、“消防法”というものの存在によってです。
この法律は、火災を未然に防ぐため、若しくは起こってしまった火災の被害を最小限に押さえるために、建物の構造、仕上材、避難通路の取り方、防災設備の設置など、細部に渡って“このように造りなさい”と決められている法律であり、特に商業施設についてはあらかじめ図面と書類を提出してチェックを受け、更に竣工時には“消防検査”という検査を受けて、“これで良いです”という判を貰わないと営業を開始することが出来ません。
そうした業務は、その施設の所在地を管轄する各消防署の“予防課”という部署が行い、そこの人達はその業務を専門にしているので、火事の際に消防服を着て現場に来る人達ではありません。
建築の方では又別に、新築や増・改築の場合、必ず守らなければならない“建築基準法”という法規があり、これは建物やランドスケープに関する総括的な法律となっています。
耐火部分に関しては消防法とオーバーラップする部分もかなりありますが、こちらのほうがどちらかというとより厳しく、建物の構造や仕上方法、隣地との距離、避難通路や排煙設備などは、まず建築基準法を遵守した後に消防法が適用される、という順番になっています。

我々インテリアデザイナーにとって一番多い百貨店内のテナント工事の場合は、百貨店が全てを管理して常に消防署とコンタクトを取っているので、おおむね百貨店の施設担当者が我々に伝える規制を守って設計すればよいのですが、単独の路面店や一部専門店ビル内のテナント工事では、まず図面が出来たらデザイナー自身が図面を持って消防署に行って、チェック(指導という)を受けなければなりません。
私自身も何度も経験しましたが、同じ内容でも各所轄によって、又、同じ署でもたまたま会った担当者によって答えが違うことがままあるので(大体が法律というのは解釈が難しいもの)、こちらは何とか“駄目”と言われないように、びくびくしながらお伺いを立てるという立場になるわけです。
当然、完璧に法律を守れば防災設備や仕上材にお金が掛かり、造りたい造作や置きたい商品の量が少なくなってしまうわけで、出来れば極力“拡大解釈”をして、そこを何とか甘く見て貰うように努力するわけです。
決して法律を守らないわけではありませんが、それは、極端な言い方をしてしまえば、ある種の“駆け引き”、又は“戦い”。
ですので、仕事の部分では“消防署”と言うと、それはまず“やっかいな”相手であり、乗り越えるのが困難な“壁”という印象が第一にありました。
まして、お金を出して店を造り、出来上がったそのお店で商売するのは我々デザイナーではなく、クライアントです。
クライアントの消防法に対する考え方も、又、大きく影響します。

今までの大きな火災事故の被害は、まずどれも消防法があるにもかかわらず、お金をかけるのが嫌な為に全く無視して、本来なければならない防災設備を設置しなかったオーナーの確信犯罪によるものでした。
ホテルニュージャパンの火事では、あたかもスプリンクラーがちゃんと付いているように見せかけるために、ヘッド(水が吹き出る口)だけを天井に付け、実際は天井内の配管も給水設備も何も接続されていませんでした。
煙感知器(煙が出ると感知し、自動的に非常ベルを鳴らす装置)もなく、各室のドアも防火機能のある鉄製で造られておらず、部屋と部屋の仕切の壁も耐火構造ではなく、燃えやすい木組でベニヤ板貼りでした。
おまけに、もともと建物のプラン自体が迷路のような廊下で構成され、非常口もきちんと明記されておらず分かりづらい場所にあり、各室にベランダも避難梯子も設置されていませんでした。
不注意な客のたった1本の寝タバコが、瞬く間に大きな炎となってホテルの大部分を焼き尽くし、多くの人の命を奪ったのは、以上にあげたたったひとつですら命取りであるような、オーナーの法律違反がいくつも重なった故の不幸にして当然の結果と言えます。

又、新宿歌舞伎町の雑居ビルの火災では、まだ直接の原因は明らかにはなっていないものの(放火という説が濃厚なようですが)、意図して閉まらなくしていた防火扉がもしきちんと閉まっていたら、天井内に隠蔽されていた煙感知器がちゃんと天井面に設置されていたら、多くの人の命が助かっただろうと言われています。
ビルのオーナーの管理に問題があるとして、今被害者の遺族からは裁判をおこされているようですが、これも又、オーナーだけでなく、そのテナントとして入っていたお店の、利益優先主義による怠慢と法律違反が招いたものです。
結果として、その被害を受けるのは、全く関係のない、何の罪もない一般の人達。
オーナーが一番に優先する、その“利益”をもたらしてくれるお客さん達です。
そうした現場で、息も絶え絶えの人達を命がけで救出したり、黒焦げになった人の死体を運び、必死で消火活動に励んだ消防隊の人達は、どんな気持ちで“作動しなかったスプリンクラー”や“閉まらなかった防火扉”を見つめたことでしょう。

そうした重大な火災事故がある度に、消防法はそれを教訓として更に基準を厳しく改定されます。
ホテルニュージャパンの火事の後は特に、ホテルに対する法律の適用が非常に厳しくなりました。
“このホテルは安全面においてきちんと消防署のお墨付きを貰っています”という意味合いの、“○適マーク”というのも、その時に出来たものと聞いています。
今では、よほど古いホテルでなければ、まず客室のドアは甲種防火戸であり、部屋と部屋の間仕切りはコンクリートブロックなどの耐火構造であり、スプリンクラーはもちろん、全ての防災設備が設置されて、ドアの部屋側の面には非常口までの避難経路が図面になって貼ってあります。
ですので、そうしたホテルでは、万が一火災になっても、まず火はその火元の部屋から外に広がることはないと言って良く、安心して大丈夫です。
しかし、“法律違反の罰則”という点では、例えば消防署の定期巡回などで問題点を指摘されても、今現在、消防署としては書類として“ここの部分は消防法上、直さなければいけない部分ですからすぐに直してください”という“指導”はしても、保健所のように営業停止にするまでの権限はまだありません。
ですから、その時点では“わかりました”とオーナーが答えたとしても、いつまで経っても改善されないままで相変わらず営業を続けている、という商業施設が多いのが今一番の問題です。
新宿歌舞伎町の雑居ビルは、まさにそうした“放置”状態にありました。
消防署としても、“危険なビル”として、ブラックリストに載せていた建物だったのです。
あのような悲劇を二度と繰り返さないためには、まず、消防署の言うことを聞かない建物なり商業施設は、即刻閉鎖、若しくは営業停止にしてしまうことではないかと思います。
聞くところによると、そこまでではないにしても、あの歌舞伎町の火災の後、“違反ビル”や“違反店舗”に対する消防署からの罰則規定はかなり強化されたということです。
しかし、まあ、想像するに、全ての“違反ビル”や“違反店舗”を営業停止にするとしたら、新宿、渋谷、池袋といった盛り場の半数以上のお店は閉まってしまうに違いないので、あまり厳しくも出来ないという、“痛し痒し”の部分もあるのでしょう。

法律とは何のためにあるのか・・・。
それは、我々の普段の日常生活を息苦しくする為のものではなく、我々が日常生活をより安心して営めるよう、出来るだけ事故が起こらないように、又、万が一の事故の時の被害を最小限に押さえるためのものです(中には相当不備な法律もありますが)。
私もこれを機に心を入れ替えて(今までも別に違反はしていませんが)、絶対に消防法をきちんと守って設計をしようと志を新たにしました。
不特定多数の人が訪れる商業施設を設計する立場の者として、そうした人達の安全に責任を持たなければならないという思いからでもありますが、今回の消防隊の人達の働きを見て、彼らに“むなしい仕事”をさせたくはない、という思いも抱きました。
あれほどの献身的な仕事を、“○○さえあればこんなことにはならなかったのに”という慚愧の念を抱きながら、して欲しくありません。
果たして、ホテルニュージャパンのオーナーや、歌舞伎町の雑居ビルのオーナーは、今まさに燃えている最中の現場で、立ち上る炎や煙を見ていたのでしょうか。
もしその場にいたのなら、次々と搬出される死体や、目まぐるしく立ち働く消防隊の人達を、どのような思いで見つめていたのでしょうか。
その胸中を、知りたいものです。
そして、法律とは誰のためにあるのか・・・。
全てのビルや商業施設のオーナーに、このことを考えて欲しいと思います。



先日、NHKの“私はあきらめない”という番組に、赤井英和が出ていました。
ご存じの方は多いと思いますが、彼は以前プロボクサーで、デビューから12連勝というタイ記録を打ち立てて一躍ボクシング界のヒーローとなり、“浪速のロッキー”とも呼ばれるほどの人気者だったのですが、試合中に生死をさまよう程の怪我を負い、奇跡的に生還したものの再起不能との通告を受けて引退。
その後、母校のボクシング部のコーチをしているときに、阪本監督から“どついたるねん”という、赤井本人をモデルにした映画の主役にと声を掛けられ、その演技を認められて俳優となり現在に至るという、その苦境の時期から俳優として転換するきっかけまでを取り上げた番組でした。
ボクサーを辞めてから20キロ近く太ってしまった体を、映画のために毎日ビタミン剤だけでしのいで減量した話など、その内容は最初から最後まで感動するものではありましたが、ここで全て書くのは長くなってしまうので省略させて頂きます。
しかし、一番私の心に残ったのは、今でも親交のある阪本監督が赤井英和に常に口癖のように言っていた言葉・・・
“ベストワンは目指さなくて良い、オンリーワンになれ”という言葉です。
この言葉自体は非常にシンプルであるし、すでに誰かの言葉として耳にしているような気がします。
しかし、当たり前すぎてありふれているようではあっても、改めて“ああ、良い言葉だな”と私は思いました。

単純に二つの言葉の違いを考えてみると・・・
“ベストワン”というのは、同じようなもの、もしくは同じことをしている人が少なくとも複数以上存在していて、その比較や競争の中からトップになる、ということで、“オンリーワン”というのは、まったくひとり(もしくはひとつ)しか存在していないので比較することが出来ない、ということだと思います。
俳優のような“個性”を売り物とする職業に関しては、まさに“オンリーワン”、他の人にないものを持っていないと成功することは難しいでしょう。
顔の美しさや演技力など、先天性であれ後から努力で身につけるものであれ、比較されて評価されるものはもちろんあります。
しかし、その人の個性=持ち味は誰にも真似できるものではありません。
阪本監督は、俳優は星の数ほどいるけれども赤井英和はたったひとり、自分にしか持ち得ない個性を大切にして、他を気にすることなくその味を最大限発揮できるような俳優になれ、と言いたかったのだと思います。

何であれ“物づくり”全般、我々の仕事も含めてアートやデザインも世の中にたったひとつしかないものを創る仕事であり、俳優の仕事と似ています。
もちろん、同じように“上手い、下手”だの、“好き、嫌い”だの、“格好良い、格好悪い”だのと必ずどこかで評価され、他の人や物と比較されてはいます。
しかし、“ベストワン”を決めること----すなわち世界で一番のデザイナー(画家・彫刻家・建築家・文筆家なども)は誰?-----という単純な問いに、誰もが皆即座に“あの人!”と答えることは出来るでしょうか?
世界で一番速い100メートルのランナーは誰?という問いには、記録という客観的な判断基準があるので、誰もが同じ答えを言うことが出来ます。
ところが、“ベストワン・デザイナー”と一言で言った場合には、その判断基準、すなわち“何が一番”なのかを明確にする必要があります。
世界で一番“仕事量をこなしている”のか、“大きな(規模の?権威の?)仕事をした”のか、“貰った賞の数が多い”のか、“人気がある(これはちょっと曖昧ですが)”のか、etc.etc・・・
“ベストワン”を決めるということは、誰もが“なるほど”と納得する、そうした目に見える具体的なデータで判断されなければなりません。

一方、そうした現象的な部分ではなく、本来のその人の作品性=仕事の素晴らしさを評価する為には、例えばデザインの分野では“グッドデザイン賞”や“毎日デザイン賞”など、又、建築の分野では“プリツカー賞”などに代表される権威ある賞があります。
もちろん、それ相応の資格のある人達とは言え、人が人を評価して選んでいるわけですから、ある程度の不透明さや曖昧さがあることは否定出来ませんが、そうした賞の選考基準は何か、というと、それこそまさに“オンリーワン”と言える独自性と創造性だと言えるでしょう。
例え1年の間にたったひとつの作品しかない人であっても、その作品が素晴らしいと評価されれば誰もが賞を与えられる可能性があり、例えば年に1回その賞が授与されるのであれば、前年の受賞者が勝ち抜いたりするのではなく、毎年新たな授賞者が生まれてその数は増えていくわけです(直木賞作家や芥川賞作家をみればわかるように)。
その受賞者達は全く同列の地位であり、少なくともその賞を獲った作品においては優劣を付けられることはない(直木賞受賞後の活躍ぶり、などという視点で後に比較されることもありますが、それは“売れるかどうか”という“ベストワン”争いの範疇でしょう)。
すなわち、それはその人にしかない“オンリーワン”を評価されているということであり、あえて人と比較するのならば、他に比べて際だった強い個性とオリジナリティがあるということ。
そうした優れた造形美や表現力などの目に見える“オンリーワン”は、決して“唯一”ではなく、幾通りかの“オンリーワン”がある、言い換えれば、優れたものは唯一ではなく多様であって構わない、ということでしょう。

自分の属する業界であっても、今現在日本にどのくらいのインテリアデザイナーがいるのか、私には分かりません。
大なり小なり事務所の規模の差はあるとしても、おそらくその数は万以上の単位になるはずです。
それくらいの数のインテリアデザイナーが、皆、何らかの仕事をしてご飯を食べているということ、それはそれだけの仕事があるということであり、少なからず驚きでもありますが(それ以前に私が食べているということすら驚きですが)、それはすなわち、それだけの“オンリーワン”があるということなのではないでしょうか。
もちろん中にはそれほどのオリジナリティーやクリエイティビティを要求されない仕事もあるでしょう。
しかし、家電製品や車などのマスプロダクト製品を、全く同じものが手に入るならば1円でも安い店で買うように、もし、誰がやってもほとんど変わりないデザインのものしか出来ないのなら、それほどの数のデザイナーは必要ないし、デザイン料の安いデザイナーのところへ仕事が集中するはずです(実際、我々の業界には設計料の基準はほとんどないと言ってよく、同じ面積の仕事でも、高い方の人と低い方の人の差は、ゼロが一桁違うということもあると私は予想します)。
ところが決してそうはならない・・・そこには、お金とは全く別の価値基準があるからです。
もちろん、競争はあります。
需要と供給のバランスはどの世界にもあり、デザイナーの数に比例して仕事の量が増えたり減ったりするわけではありませんから、他のデザイナーに目移りされる可能性は、運良く評価してくれるクライアントに出会う可能性と同じだけあると言えます。
同様に、年商何億円、スタッフ数十人という大きな事務所と、たった一人のフリーランスデザイナーが、あるデザインコンペで戦ったとしても、勝つ可能性はフィティフィフティ、どちらにもあります。
要は、“オンリーワン”さえ持っていれば、それ以外の何者も比較の対象にはならない世界なのです。
事務所の規模、仕事の量、年間の売上高、そうした数値で比較できる価値は、あくまでも“結果”であって目的ではありません。
デザイナーを目指す、ということは、まさに“オンリーワン”を目指す、ということであり、“デザインをする”という行為は、常に自分が“オンリーワン”であり続けようと努力することに他なりません。

私には、同業者の友人が沢山います。
ご存じのように我々の業界は男性の方が多い世界ですが、同世代は元より、上は十歳以上先輩の方々から下はひとまわりくらい下の年代まで、幸いにも、というか、私が女性であることから変なライバル意識を持たずにつき合えるのか、皆さんとてもフレンドリーに接してくださっています(と思うのは本人だけかもしれませんが)。
しかし、私が彼らとつきあっていく上で心がけているのは、本人の前であれよその場所であれ、そうした友人も含めて同業者の作品に対する批判は一切しないこと。
と言うよりも、“私にはこういうデザインは出来ないなあ”と感心することはあっても、その彼らのデザインに対して、好きだの嫌いだの、良いの悪いの、という気持ちすら起こらないのです。
何故なら、デザインという仕事をしている以上、彼らと私の考え方や作品の傾向が違うのは当たり前だし、それは、同じデザインという行為であっても、全く違うアプローチによって成り立っているからであり、逆に言えば違わないと困ります。
違うからこそ、同じ仕事をしていてどちらもご飯を食べていられるのであって、その違いを私は同業者として尊重しますし、考え方が違うと言ってデザイン論を戦わせたりなどするつもりは毛頭ありません。
むしろ、同業者であるからこそ他者の違いを認めるべきですし、もし認めなければ、そもそもそれぞれの“オンリーワン”で成り立っているデザイナーという仕事の上で、自分の存在意義すら否定してしまうことになってしまうのではないかと思います。

今から20年ほど前、私が横田デザインに入ったばかりの頃は、夜ボスに連れて行って貰ったバーなどで、お互い同世代の大先輩デザイナー同士が鉢合わせし、デザイン論が高じて殴り合い寸前の口論になった、というシーンに出くわしたことも度々あります。
公の雑誌に、あろうことか名指しで、ある特定のデザイナーの仕事ぶりを批判した文章を載せるデザイナーもいました。
なあなあ主義の仲間意識もそれはそれで鼻につくものですし、良くも悪くも“熱い時代”だったのかな、と今では懐かしく思い出したりもします。
今でも派閥のようなものは確かにありますし、どの世代でもライバルのような存在は当然あるでしょう。
しかし、他者を否定するところからは、新しい価値観は生まれて来ないと私は思いますし、逆に批判されようとも自分自身の信じることをやり続ける、それが“物づくり”というものではないかと思います。
そして幸いなことに、今の時代は、少なくともその私が体験した“酒場でのデザイン論喧嘩”の時代に比べて、明らかにデザインの価値観は多様化してきています。
“デザイン”や“アート”、又は“建築”と“インテリア”といったような棲み分けの壁も取り払われ、ジャンルを越えた新しいものへの挑戦が、よりやりやすい時代になったことは確かです。

ところで、近頃の学生に良く見られる傾向ですが、雑誌などに良く取り上げられている、いわゆる“旬”のトレンドデザイナー以外には全く興味を持たず、就職活動の際にもほんの一握りのそうした事務所に履歴書を送って、駄目だったら落ち込んでそれで終わり、あとは何かバイトでもし食いつなぎ、そうした事務所にいつか入れる日を夢見るというパターン。
そもそも、社員が何千人とかいる大企業じゃあるまいし、毎年何人も新卒者を採れるような会社ではないところへ、そうした輩が、桑沢だけでなく全国のデザイン専門学校や美術系や理工系の大学から、うじゃうじゃ来るわけです。
その競争率から言って全く可能性が低いのに、どうしてもそういう“有名どころ”じゃないとデザイン事務所ではないと言わんばかり・・・
もちろん、デザインやアートはその時代の風俗や感性、ムードなどを反映しているもの。
時が経てば古いと感じるものもあり、決して普遍的なものではありません。
“旬”である、ということは、言い換えればその時代の要求にマッチした、一番的確な“新しさ”を具現化しているということ。
それだけで、十分の価値があります。
しかし、そうしたトレンド的な見え方は、今のファッションの価値観とシンクロさせているマスメディアの取り上げ方の問題であり、本来空間デザインというものはもっと多彩なものだと私は思います。

真っ白い空間が“流行り”であっても、黒い空間もあっても良い、いえ、なければいけない。
存在感の希薄な透明な空間が“流行り”であっても、堅牢な構造物に囲まれた重厚な空間もなければいけない。
冷たいシャープな素材が“流行り”であっても、暖かい木の質感の空間もなければいけない。
そうした多様な可能性に目を向けず、例え“流行り”であったとしてもひとつの方向性にのみ突っ走っていくことは、非常に危険なことだと思いますし、デザインの未来にとって良いこととは思えません。
様々なデザインの方向性や様々なデザインの手法、全てを否定せずに、古いものも新しいものも出来る限りのデザインを自分の目で見、そうした中から本当に自分にフィットするものを探し、それを越える自分だけの“オンリーワン”を創り出す・・・・そのプロセスは、決して今の旬のデザイン事務所に就職することだけで得られるものではないと思いますし、ミーハーな先入観を捨てることで逆に選択肢は大きく広がります。
もしかしたら、自分が“好きだ”と思っていた方向性が、実は自分の“オンリーワン”を表現する世界ではなかった、ということに早い段階で気が付くこともあるかもしれないのです。
食べもしないうちから、“食わず嫌い”をしてしまうのは損なことです。
もちろん憧れは必要だし、志を高く持つことも大事です。
しかし、もっと大事なことは、そうした就職先を選ぶ際も、就職した後も、自分の“オンリーワン”は何なのか、ということを常に自分自身に問いかけ続けること。
貴方はその憧れのデザイナーと全く同じ人間になりたいわけではないし、全く同じデザインをするつもりもないでしょう。
いいえ、出来るわけもないのです。
何故なら、その人の作品はその人だけの“オンリーワン”であって、誰にも真似できないものだから。
そして、貴方の“オンリーワン”もどこぞの事務所で先生から与えて貰うものではなく、学生である今現在も、単に眠っているだけかもしれないけれどきっと持ち続けているはずで、それは貴方だけのものだから。

私自身、よくうちのスタッフに良く言っています。
「私のデザインは私だけのデザイン。うちの事務所では、仕事として私のデザインを形にしてもらう手助けをしてもらっているけれど、それはデザインという仕事の、職人的な技術の部分とデザインをする方法論を学んで貰っているだけのこと。
貴方のデザインは今は形にするチャンスがないかもしれないけれど、常に頭の中の引き出しに貯めておいて、いずれ形にするときまで持ち続けること。
それは、私のデザインではないし、似ている必要もない。違う人間なのだから、違うデザインであるのが当たり前。
むしろ、私のデザインを越えるものを創ろうとしなければならない」と。
もしかすると、彼(彼女)が自分のデザインを晴れて形にすることが出来るのは、うちの事務所から独立した時なのかもしれません。
だとしても、それまで全く何も自分の“オンリーワン”を持ち続けようとしなかった人間は、“さあ、ではこれから”と思っても、きっと何も生み出すことが出来ないでしょう。
“芸は教えて貰うものではなく、盗むもの”と良く言われていますが、盗むことが出来るのは実は“技”だけで、本当の芸である“創造性”は、盗むことも教えて貰うことも出来ないものだと思います。
言い換えれば、“オンリーワン”を持っている人間ならば、決して“ベストワン”の会社に就職しなくても“技”を取得できるところならばいずれデザイナーとして独立してやっていけるし、逆に“オンリーワン”を持っていない人間は、どんなに“旬”の会社に就職しても一人前のデザイナーになることは出来ない・・・冷たいことを言うようですが、そういうことです。
しかし、100人いれば100通りの“オンリーワン”がある、そのことも同時におぼえていてください。
誰にでも、可能性はあるのです。

ちなみに、今や“旬”のデザイナーの一人である片山正通は、うちの事務所に在籍していました。
新卒で入社したわけではなく、それ以前に他の事務所で何年か過ごした後に経験者として入ってきたので、純粋培養とは違う部分もありますが、彼はうちにいたときから、しっかりと自分のデザインの世界を持っていました。
もちろん、私のアシスタントとしての仕事もきちんとこなしていましたし、ひとつの物件をデザインから担当した際には、最低限DESIGN VALUEとしての方向性と質は保っていましたが、全く私の亜流などではない自分なりのデザインを表現し、又、私もそれを歓迎していました。
ほんの一年余りで“自分を見つめ直すため”に退社しましたが、その後、H.DESIGNからWONDER WALLへ至る活躍ぶりは、皆さんご承知の通り、その作品には彼の“オンリーワン”が明確に感じられます。
うちの事務所からは、他にも現在きちんと事務所を構えて仕事をしているデザイナーが数人巣立っていますが、皆それぞれ、お互い同士、又、私にも似てない独自のデザイン世界を持っています。
それはもしかすると、私の影響力があまりにも希薄だったということなのかもしれませんが、逆に考えれば、彼らはきっと私の事務所でなくても、どこに在籍していても結局は同じように、いずれ独立して成功したのではないかと思います。
彼らの中には、きっと自分なりの“オンリーワン”が、常に発現の場を求めて燃えていたのでしょう。

話は全く変わりますが、とうとう、アメリカとイギリスによるイラク攻撃が始まってしまいました。
この一方的に仕掛けられた攻撃(戦争とは呼べないでしょう)については、フランスやドイツのみならず、当事国であるアメリカやイギリス、もちろん日本でも反対の声が高く、世界的規模で反戦デモが行われています。
戦争の是非についての私自身の意見をここで述べるのは、誤解を招く恐れもありますし、又、このサイトのテーマとはかけ離れてしまうので避けますが、ただ、ひとつだけ言いたいのは、アメリカという国は、常に“ベストワン”という価値基準しか持っていないのではないか、ということ。
自分たちの価値観、自分たちの判断基準が世界にとっても同じでなければ気が済まず、その為に、全く理解できない宗教や文化の存在を認めることが出来ないのではないか、という気がします。
この広い地球には、数え切れないほどの民族、宗教、歴史、文化、文明があり、それぞれが皆“オンリーワン”だと私は思います。
もちろん、何の罪もなく虐げられ、自由を奪われたまま、満足に食事も取れずに死んでいく人々は、その国以外の人から援助を与えられなければ、生きる権利さえ全うすることが出来ません。
富める国が何らかの援助をしていくことは絶対に必要であり、その為に国連という組織があるのでしょうが、一方、国連とは“ならず者”を退治する決定をする場所だとアメリカは思っているようです。
しかし、そうした“強者の論理”が全ての世界に通用するわけでもないと私は思います。
グローバル・スタンダードとは、イコール“アメリカン・スタンダード”だとも言われています。
もう少し、それぞれの“オンリーワン”を尊重し、認めることが出来たなら、これほどアメリカが“嫌われ者”になることもないのではないか、と思いますけれど・・・





いきなり堅苦しい話で恐縮ですが、今(実のところはすでに十年以上前から)、産業廃棄物の不法投棄が問題になっています。
私も含めて東京や大都市で暮らす人々にとっては、TVのニュース以外では決して目にすることもない醜悪なゴミの山が、実はほんの少し離れた千葉や埼玉などの、同じように日常生活を営んでいるごく普通の市民の暮らしている場所のすぐそばで、有害な廃液や強烈な臭いを垂れ流しながら日々増殖している現実があります。

産業廃棄物というのは何なのか・・・それは、そのほとんどがビルや住宅など建築物の解体現場から出たゴミ=壊したもののことで、コンクリートの瓦礫もあれば木造住宅の構造材もあり、窓のサッシや果てはトイレの便器まで、たった一軒の家を壊すだけでも信じられないほど大量のゴミが出ます。
もちろん、我々のようなインテリアの仕事も、産業廃棄物とは無縁ではありません。
例えば百貨店の内装工事でも、新たなショップを造ったり環境のお化粧直しをしたり、という際には、それ以前の造作を壊してから造るわけですから、百貨店の全面改装などの時には、それはもう、住宅何十軒分もの大量の解体残骸が出ます。
又、新築(新装)工事自体でも、工事をしている間に現場で使った木材や軽鉄、ボードなどの端材や、養生シートなどのゴミが毎日発生し、そうしたものも産業廃棄物として処理しなければなりません。
では、通常そうしたゴミはどのように処理されるのか、以下は私の懇意にしている施工会社の方に聞いたものですが、あくまでも正しく処理される場合の、その流れを追ってみましょう。

まず、建築や内装工事の元請け業者(もし解体工事だけの場合でも、施主が直接解体業者に依頼することはあまりない)が、解体工事が含まれていればその見積もりと一緒に、又、工事中に発生する残材処理については残材処理費として、工事金額の見積書に項目としてその処理費を計上します。
そして、元請け業者は解体を請け負う業者に解体工事を依頼し、解体業者は解体する職人さんを手配して解体を行い、そして出た廃棄物については専門の産廃業者に処分を頼みます。
毎日の工事の中で出た残材については、元請け業者が専用の袋などにまとめ、随時、もしくは工事終了時に、やはり産廃業者に依頼して取りに来てもらいます。
そしてその産廃業者は決められた方法で、正規の処分場に、そのゴミを持って行きます。

そのゴミの出し方ですが、それは全く我々の家庭から出るゴミと同様、細かく分別しなければならないそうです。
木材などの端材は“燃えるゴミ”、金物やボード、プラスチック、ビニールなどは“燃えないゴミ”、段ボールや紙類は“資源ゴミ”、そして現場で休憩の時に飲んだ飲み物の缶やペットボトルなどは“リサイクルゴミ”、そのように普通の生活ゴミと全く同じように、現場の時点でそれぞれの袋に分別した上で出さないと、産廃業者も持っていってくれないそうです。
もし現場の都合で分別が出来ない場合は、産廃業者の方でいくらかの手間賃をもらって分別を行い、最終的には同じ形で処理場に出さなければなりません。
ですから、“正しいルート”を通って出されたゴミは、結果として我々の家庭から出るゴミと同じ場所に行き着き、同じように処理されるのだということだと思います。

しかし、家庭ゴミとちょっと違う部分は、その素性が全て分かってしまうということ。
というのは、工事現場で出るゴミには“マニュフェスト”という書類が添付されていなければならず、その書類には、いつ、どこの現場で、どの施工会社が出したものか、ということが全て分かるように書かれていなければならない、ということ、そして必ず元請け業者の現場監督や解体業者の担当者のサインが必要だということです。
故にその書類さえあれば、そのゴミの誕生から末端の処理場まで、関わった人たちの全てが分かってしまう。
今は、そうしたルールが法律としてきちんと決められているのです。

では、逆に“正しくないゴミの出し方”である不法投棄について。
産業廃棄物の不法投棄とは、処理場とは全く関係のない場所にゴミを捨てる違法行為のことです。
ほとんどが「確信犯」のため、人気のない山や土地などに、人目に付かない夜中の時間を選んで、トラックを乗り入れて捨ててしまう場合が多い。
その場所は、違反をしている業者、又は関係者が所有する土地である場合もありますが、国有地や他人の土地である場合もあり、まず誰かが捨てた産廃ゴミがあると、これ幸いと次から次から同じ、もしくは違う業者がそこにゴミを捨てに来るようになり、いつの間にか巨大なゴミの山になって、あたかもそこが認められたゴミ捨て場のような様相になってしまいます。
そうなるとその周りで暮らしている人たちの力だけではどうにもしようがない状態となり、ただ日々増えていくだけのゴミの山を眺めているだけ、という悲劇を生んでしまうのです。
もちろん、ただトラックで積んできたゴミをザーッと捨てるだけですから、分別されていようがなかろうが、何の関係もありません。
コンクリートも木材もビニールシートもペットボトルも、何もかも一緒くた。
雨に打たれ、陽に照らされるうちに錆や化学物質などが溶けて流れ出し、有害なダイオキシンとなって地表に染み込んで行くのです・・・

何故、法律違反と知りながら、不法投棄が頻繁に行われるのでしょうか。
又、不法投棄をしているのは一体誰なのでしょうか。
まず、不法投棄の犯人は、いわゆる“ヤミ”で産廃処理を請け負っている業者がほとんどですが、驚くことに、認可を受けた正規の産廃業者が、違法を承知でやっている場合もあります。
その理由については、第一にお金の問題があります。
正規の方法で産業廃棄物を処理するのには、かなりのお金が掛かるのです。
まず、トラックの積載重量などが厳しく取り締まられているため、自ずとゴミの総量に対してトラック何台、という経費が計算されますし、正規の処分場では処分費も掛かります。
工事の元請け業者、若しくは解体業者にとっては、出来るだけ安くコストを抑えるために、実際に“完成品”として目に触れる製作物の部分ではなく、施主の目に触れない部分(すなわちこのようなゴミ処理費など)で節約するのが一番手っ取り早い、ということであり、その為には正規の処分費は払いたくない、故に、もしかしたら不法投棄であるかもしれないと分かっていたとしても、自分が直接手を汚すわけではないので、金額が安い業者に“廃棄物処分”を依頼してしまうのです。

そして、そうした行為を生んでいる大きな要因に、社会全体の景気低迷、直接的には土地など不動産価格の下落や個人消費減退による投資抑止のための“ローコスト化”、衣料品や日用雑貨だけでなく、建築工事や内装工事の世界にも顕著な価格競争があります。
すなわち、工事を依頼する施主側が、工事の内容や質よりもまず金額第一、出来るだけ工事を安くあげようと、多くの業者に競合見積もりをさせるからです。
工事が欲しい業者は、一円でも安い見積もりを出そうと必死になります。
しかし、そうは言っても、例えば図面で“大理石貼り”と書いてある部分を木で造るわけには行かないので、解体工事や残材処分など実際の工事には関係のない部分で節約せざるを得なくなってしまうという訳です。

これは、先に書いた施工会社の方が言っていたことですが、ある百貨店の現場で、その施工会社がいつも使っている解体業者さんが、別の施工会社から、同じ百貨店の別の現場の解体工事をしてくれないか、と依頼があったそうです。
しかし見積もりの段階で、その希望金額(指し値と言います)を聞いて、“とてもじゃないけど出来ない”と断ったそうです。
長年解体工事を専門にやっている業者さんなので、このくらいの現場だったらどうしてもこのくらい掛かる、という原価はもちろんすぐに出すことが出来るのですが、その指し値は原価を遙かに下回っていて、どう考えても正しいやり方では出来ない金額だったそうです。
しかし、その業者さんが断った後、どこかの業者さんが請け負ったのでしょう、無事に解体工事は行われました。
・・・だからどう、とここで詮索するつもりはありません。
もうけを度外視して赤字覚悟でやったのか、それは分かりませんが、しかし、そのように非常識な金額で依頼する(請け負う)元請け業者がいるのも現実ならば、それを請け負う下請け業者がいるのも現実なのです。
そして、その大元には一つの工事に十社近くもの業者を呼んで競合見積もりをさせ、見積書の中身も見ずに表紙に書かれた金額だけで一番安い業者を選び、更に値引きをして工事を出す施主がいるのも現実なのです。

もちろん、一円でも安く工事をあげようという施主の姿勢が産業廃棄物の不法投棄を生んでいる、と短絡的に言うつもりはありません。
そして、もちろん、我々工事を依頼する側にとっては、安くて良い物が出来ればそれに越したことはありません。
地道な企業努力と下請けさんの協力で、少しでも良いものを安く提供しようと日夜頑張っている業者さんがほとんどでしょうし、今時仕事があるだけで良しとして、自分の儲けを削ってでも仕事を取ることが先決、という施工業界の厳しい現実も理解できます。
しかし、私自身の長年の経験から得た格言は、何事についても、“安いものには理由があり、高いものには理由がない”ということです。
ものを売り買いするという商売の場において、例えば極端なケースで言えば、相手をだませさえすれば偽物の絵や骨董品などを何百倍もの高価な値段で売ることが出来ます(それは詐欺という立派な犯罪ですが)。
もちろん、高級ブランドのバッグや服、高級車や時計など、上質な素材を使い、熟練した職人が一つ一つ手作りで細かい部分まで丁寧に時間をかけて作っているために値段が高い、という納得できる“理由”があるものはあります(時には同じ1枚のTシャツがこんなに高いのは、ブランドのネームとデザイン料だ、と思うこともままありますけど)。
ですから、言い換えると、“高いものには理由がない場合もある”ということでしょうか。

一方“安いもの”の場合、他の会社が150円で売っているものを100円できちんと儲けを取って売るとすれば、最低限80円か75円位で仕入れ、若しくは製造しなければならない。
残りの20円〜25円の中にはそれを売るための交通費や人件費などの経費も見なくてはならず、その経費を出したら赤字になってしまうのならば、仕入れ値や製造原価を見直して、50円くらいにする方法を考えなくてはならない。
それは言うまでもなく、商売の常識です。
ですから、“安い物には理由がある”ということを分かった上で、安いものを買うのなら私はそれは一向に構わないことだと思います。
家電などのように、同じメーカー品を、仕入れ方法などの工夫や独自の流通システムの開発によって安く売っているところがあれば、わざわざ行ってそちらで買いますし、高級ブランド品と良く似たデザインの服やバッグを、何分の1かの値段でコピーと承知で買うのも本人が良ければ良いことです。

しかし、建築や内装工事では、明らかに何倍も高い、という詐欺まがいの行為は絶対に出来ない(何故なら単価というものの相場が大体決まっていますし、それ以前に、仕事が取れなくなることをわざわざすることはあり得ませんから)上に、“妥当な工事金額”というものが必ず存在すると私は思います。
“安い物には理由がある”という論理で工事の見積金額を見れば、大体の施工レベルが分かってしまうものなのです。
すなわち、元請け業者が赤字にならずに工事を行うとしたら、その原価=下請け業者の請け負う金額も大体予想がつくし、その金額によって自ずと職人さんのレベル、そして手間のかけ方がわかります。
どんなに一生懸命でまじめな現場監督がいて、とりあえずは図面通りのものが出来ていたとしても、その施工技術のレベルは出来上がった物を見ればまず当初の予想通り。
“ああ、なるほど安いだけのことはあるなあ”、“ちょっと高いけれどこれだけ出来がよいのなら、やはり良い職人さんを使っているのだな”、もしくは、“この金額でこれだけの物が出来るならまあまあかな”、と評価できるのです。

塗装の仕上げが多少悪くても、什器の脚が多少ぐらついても、それは直してもらうことが出来ます。
しかし、いつの間にか現場からなくなっているゴミの処理の仕方などについて、我々が知るすべは全くありません。
それを判断するには、見積もりの段階で、きちんと解体工事費や仮設工事費の中に、残材処理費が妥当な金額で計上されているかどうか見るしかありません。
たとえ計上されていたとしても、“何でこんなに残材処理費が高いの?”と文句を言う施主もいる、と聞きますし、総工事金額を一括で何十パーセントも値切られてしまい、それでも工事を断れないとしたら、前述したように、最初から意図しなくてもどこか目に見えないところで節約するしかなくなります。
もちろん、どんな状況であろうと法律に違反してまで仕事をするなどという業者が、少なくとも私の周りにはいないことを信じたいですし、物づくりをする人たちの良心を信じたいと思います。
しかし、我々は、日常生活の中でもゴミの行方などについて普段何の意識もしない生活を送っているばかりか、特に私のような職業はまさに仕事をすること(新しい工事現場を作ること)イコール産業廃棄物を生み出す、つまり、その原因を作っている側にいるわけです。
そのことに少なからず責任を感じつつ仕事をしなければならないし、施主も含めてそのゴミを出す原因となる工事を依頼する我々が、請け負う業者に対して正当で良心的な工事が出来る金額で発注してあげることが、まず第一歩なのではないかと思います。

話は変わりますが、先日、これは以前放送したものの再放送だったのですが、NHKで安藤忠雄さんの特集番組をやっていました。
安藤さんの神戸や大阪という地域との関わりや、作品やコンペなどの例から“安藤さんにとっての建築とは何か”という理念を、インタビューを通して本人の言葉で語ったもので、非常に内容の濃い番組でした。
安藤さんが現代を代表する優れた建築家であるのは誰もが認めるところですが、しかし、中には(特に同業者や我々デザインに関わっているもの)あのストイックなフォルムが人に優しくない、とか、コンクリートの打ち放しが冷たすぎる、とか批評する人もいますし、個人的な嗜好からいえば好きでない、という人もいるでしょう。
私自身は、安藤さんは好きな建築家の一人なので、展覧会などにも行きますし、地方に行って安藤さんの建築があれば必ず見に行きます。
しかし、そうした好き嫌いは別にして、番組の中で語られたことで印象的だったことがいくつかあります。

まず、あの阪神淡路大震災の時に、安藤さんが取った行動。
彼は、地震の後、すぐにオートバイに乗って神戸の街に出かけていきました。
第一の目的は知り合いや仕事関係の方の安否の確認だったでしょうが、それと同時に大正や昭和の初期に建てられた、銀行などの古くて美しい建物が無事であるかどうか確認すること。
そして見たのは、半壊して傾いたそれらの悲惨な姿・・・涙が出てきた、と彼は言います。
(ちなみに、その話の中で”自分の作った建築が無事かどうか心配だった”という言葉は一切ありませんでした。私はその当時、やはり地震の直後に神戸に行ったという知人の建築家の話を聞いたことがあるのですが、“安藤さんの建築は、ヘアークラック1本も入っていなかったよ”ということでした。安藤さんは、はなから、自分の建築が壊れるなんて心配は全くしていなかったのでしょう)
その次に(もちろんある程度街が落ち着いてからでしょうが)彼がしたことは、修復できるダメージかどうかを専門家の目で判断し、それらの建物のオーナーのところに出かけて、“どうか解体しないで、出来るだけ今の姿を残して、何とか修復して元の姿にしましょう”と説得することでした。
何故なら、それらの古くて美しい建築はそれ自体が街にとっての財産であり、長い年月と風雪を経て醸し出された風合いは、二度と再現できないものだったからです。

インタビュアーの、“でも、何故そのようなことをするのですか?建築家にとって、古い建物が壊されて新しい建築を建てる方が、仕事の依頼が増えて良いでしょう”という質問に対し、安藤さんは“建築家にとっての仕事は新しい建物を建てることばかりではない”と答えます。
そして、最近の仕事である“こども図書館”の完成した現場を案内しながら、既存の建物を全く壊さず、内部に新たなもう一つの空間を設けたことや外部にガラス張りの回廊を増築したり、元からある天井の漆喰や床の象眼細工のフローリングの痛んだ部分を元の姿に忠実に修復したり、といった作業を、“だって、この建築、美しいでしょう? ほら、ここなんか・・・ほら、ここの○○も、何とも言えない表情でしょう。こんなに美しいもの、どうして壊してしまうんですか”といとおしそうに語ります。
建築家にとって、これから一番大切な仕事は“再生”である、もう、新しい建物はいらない、と彼は言いきります。
そうした仕事だけでも、十分に食べていけるのだ、と。

又、彼は、街には緑=植物が必要である、自分にとっての建築というのはそうした木や葉っぱに半分隠れて、見え隠れするような姿が一番望ましい、と語ります。
インタビュアーが又、“どうしてですか? 建築家にとっては、どーんとその建物の姿が見えて、ああ、安藤の作品だ、とはっきり知られた方が宣伝にもなるし、良いじゃないですか”と尋ねると、“そんな恥ずかしいこと、全然必要ない。安藤なんていう看板もいらないし、自分がコンクリートの打ち放しで建築を作っているのは、緑が映える色だということと、時と共に雨風に打たれて街にとけ込み、目立たなくなる素材だからだ。そうして汚れて変化していくことが自然の姿”というのが安藤さんの答えでした。

彼は又、阪神淡路大震災の後、“白い花の木を植えよう”というボランティア活動を中心になって呼びかけ、神戸の街を木犀などの白い花の木でいっぱいにしようとしています。
更に、あの産廃で有名になってしまった瀬戸内海の豊島でも、“オリーブの木を植えよう”という運動をしています。
それは、どのような高度文明社会を体現する都市であっても、人が暮らす限り、緑や花という自然との共存がなくてはいけない、都市という景観の中には植物の存在が欠かせないものである、という彼の考え方によるものであり、汚され破壊された環境や人の心を癒すものは、日々成長していく植物=自然の営みなのだという、シンプルかつ当たり前の論理によるものです。
そうした当たり前のことが、ともすれば忘れられている物質至上主義の現代社会において、悪く言えばその先鋒的な存在である建築関係者の口から語られ、具体的な行動として実践されている、ということに、大きな意味があると私は思います。

先に述べたように、建築家であってもインテリアデザイナーであっても、仕事をすることイコール様々な材料を消費し、自然を少なからず破壊し、多量のゴミを排出するという宿命を背負っています。
そんな私たちが、今更環境保護やリサイクルを唱えたって、“何をきれい事を・・・仕事を辞めるのが一番”と冷笑されるのは当然でしょう。
しかし、最近、地球温暖化現象の要因となる“ヒートアイランド現象(ビルなどから出る廃棄熱やガラス面に反射する太陽光の熱によって、都市部の気温が夜でも下がらなくなる現象)”の防止のため、大手ゼネコンなどが既存のビルやこれから建てるビルの屋上や外壁に植物を植える“緑化計画”の推進をするようになりました。
又、今月末には建築資材などの再資源化を義務づけた“建築リサイクル法”が本格施行されることとなり、建築現場で出る廃棄物の分別化、再資源化が義務付けられ、怠った会社には罰則規定が適用される運びとなりました。
焼却灰をコンクリートブロックに再生したり、段ボールをふすまに変えるなど、リサイクルで再生した資材を優先採用する“グリーン調達”の動きも広がっています(読売新聞より)。
家電業界では、ソニーが製品を梱包する緩衝剤に、今まで常識だった発泡スチロールをやめて、燃やせる紙素材のものを開発しました。
これから家電製品自体も、パーツの再利用や素材自体からリサイクルを前提に開発されることが当たり前になっていくでしょう。

高度経済社会というのは、イコール大量消費社会であり、生産と廃棄、建築と破壊は常に背中合わせに存在します。
しかし、安藤さんが言うように“再生”を心がければ、少なくとも“廃棄”と“破壊”の量は確実に減らすことが出来ます。
このように、日本の行政や企業の意識が、遅ればせながらも変わってきているという事実は大いに評価できますし、今後も益々その傾向が強くなっていく、いえ、そうでなければ企業としての生き残りが出来ない時代へと移行していくことは確実と言えます。

又、古い物を残していくことは、時代の移り変わりという変化のスピードを遅くし、人の生活にゆったりとした時間の流れを生み出すことでしょう。
最近私は、学生達との会話の中で感じるジェネレーションギャップによって、自分の歳を感じる機会が増えました。
一番驚くのは、“死語”、すなわち“それどういう意味ですか”と通じない言葉の多さです。
目にすることが出来る古いものが存在しなくなるということは、それを表す言葉も消えていく宿命にあります。
言葉ばかりでなく、失われていくもののスピードは、日に日に加速されています。
わずか2〜3年前には平気で待てたアナログ電話回線によるインターネットの接続スピードが、ADSLや光ファイバー通信の普及で、もう、苛々するほど遅く感じられるようになり、お腹が空けば夜中でもすぐに食べ物を買えるコンビニがあり、そうした何でもすぐに手に入る環境が“待つことの出来ない子供”を生んだりしています。
それは、一度手に入れた快適さ、便利さを手放せない私たち、少しでも時間を節約したい私たち大人の姿そのものでもあります。
しかし、そうした“何でも手早く”手に入れることへの警鐘として、最近飲食業界でも、ファストフードに対抗して“スローフード(良質な素材を手間をかけて料理し、ゆっくり味わって食べること)”の必要性を訴える動きが出てきました。
単に“新しいトレンド”としてのみ、終わらないことを祈るばかりです。

宮大工の西岡さんは、常々言っていたそうです。
いわく、“樹齢千年の木を使って建物を建てるのであれば、千年持つ建築にしなければいけない。それが木に対する一番の愛情であり、礼儀である。建てたばかりのものは本当のその建築の姿ではない。我々は死んで目にすることは出来ないけれど、千年経ったときのその建物の姿、それが本当の姿である”。
今、樹齢百年の木すら、日本にはもうないそうです。

自然界における時間は、決して人間がコントロールすることの出来ない絶対的なもので、成果や結果はその時間の経過でしか得ることが出来ないものです。
オリーブのたわわな実と豊かな緑に覆われた、ゴミのない豊島の姿を目にすることは、安藤さんや我々が生きている間には無理かもしれません。
でも、もしかしたら豊島にオリーブの木を自分の手で植えた子供達は、毎日毎日少しずつ成長していく過程の中で“待つこと”の楽しさと大切さを知ってくれるかもしれません。

新しくて無駄のないものを作っていく努力をしながら、と同時に古いけれども美しいもの、不便だけれど大切なものを残し、将来のために必要なものをじっくりと育てていくこと(少なくともその種を植えること)、それらが全て同時に進行されなければ、地球の寿命=人類の寿命は予想よりも早く訪れてしまうでしょう。
“もう、遅すぎるかもしれない”、それでも“今からでも始めるべき”なのだと思います。




2週間ほど前からソルトレークで行われていた冬季オリンピックも、厳戒態勢の中、無事閉幕を迎えました。
何にせよ、主役である選手達の精神力や素晴らしいパフォーマンスには、文句なく拍手を送りたいと思いますが、一方、審判の不正疑惑やジャッジミスなど、後味の良くない問題もありました。
今やこうした大きなイベントは、国を挙げての経済活動であり、自ずと様々な利権や思惑が絡むのが常識、ましてどの世界でも“○○組織委員会”だの、“○○競技連盟”などという組織は、どうしても政治的な臭いを感じさせてしまいます。

又、たった一人の選手が国の威光をすべて背負って競技しなければならなかったり、国民の愛国心や意欲高揚をメダルの数に賭けなければならなかったり、と、単なる記録や順位の争いが、その本来の価値の数倍もの意味を持つことがあります。
特に今回強く感じたのは、昨年の9.11のテロ事件のせいで、開催国であるアメリカにとってはオリンピック自体の成功はもとより、“悲劇から立ち上がってスポーツでも全世界に強さをアピールしたアメリカ”という印象を、絶対的な事実として示さなければならない大会であり、その思惑が参加国やTVで観戦する全世界の人々にもあからさまに感じられたため、かえって初めに述べたような“疑惑”を抱かせる色眼鏡にもなってしまったのではないか、と、ちょっと皮肉な見方さえしてしまいます。

私が愛読しているスポーツ雑誌“NUMBER”に、金子達仁さんというスポーツライター(でもあり、サッカー解説者でもある)が連載しているエッセーがあるのですが、一番新しい号で非常に興味深いことを書いていらっしゃいました。
1972年度のアカデミー賞の授賞式で、作品賞を受賞した“ゴッドファーザー”のプロデューサーが、“アメリカには映画が必要です。映画にはアメリカが必要です”とスピーチしたことを例に上げ、スポーツと国の関係において、このアメリカと映画のような関係がきちんと成り立っている国がどれだけあるか(特に日本はどうなのか)、という内容です。
すなわち、多くの国民が映画を楽しみ、アカデミー賞に歓喜するならば、アメリカのように、国として、映画にとって必要なもの(例えばロケに対する自治体の協力や映画産業に対する政府の援助など)を与えるべきである、それはアメリカにとって映画が文化であるという認識の表れであり、その点で日本は、映画に対して伝統芸能や芸術のような“文化”という認識が全くない、だから映画を撮る際にも道路が使えないなどの制限があったり、日本人が海外で獲った映画の賞の受賞などに政府が無関心だったりする。
それはスポーツに対しても同様で、特にヨーロッパでは完全に文化と認識されているサッカーにおいて、例えば天然芝のサッカー場や一般の市民が気軽に使えるような公営のサッカー場が他国に比べて極端に少なかったり、そうした環境整備や選手の育成を企業任せにしている、というような点で非常に遅れている。
そのような国がワールドカップを開催するということが、サッカー文化国の仲間入りをするという目的からではなく、政治家や一部の経済人の思惑や思いつきだけで決められていなければいいが、というような問題提起です。
私はその文章を読んで、本当にその通りだと思い、その思い入れと鋭い指摘に、金子さんのサッカーに対する愛情と情熱を感じました。
しかし、ここでは、ちょっと今回のテーマとは離れてしまうので、“日本におけるサッカー文化”については、別な機会に譲ることにします。

さて、翻って今回のオリンピック。
あらゆる競技で選手達の活躍と結果を“必要”としていたアメリカは、参加する自国の選手達に、おそらく与えられるもの全てを与えたことでしょう。
その“与えたもの”の一つが、国を挙げて、組織を挙げての“ちょっとした手心”でないことを祈るばかりです。

ところで、今回のオリンピックで、話題になったことがもうひとつあります。
それは、日本選手の公式ユニフォームのデザイナーが変わったことです。
今回のユニフォームは、今までのような、いわゆる日本のファッション界の重鎮といわれる大御所デザイナーに依頼したものではなく、表だったデザイナーを擁していない一企業、それも大量生産・低価格で若者に今絶大なる人気を博しているカジュアルブランド“U”を製造・販売している、F社に依頼されました。
今までのユニフォームのダサさに、やっと今頃気が付いたか、と、その決断に遅すぎる感はありますが、それでもこの方針転換は非常にエポックメイキングなことであり、お役所仕事にしては大英断と褒めるべきでしょう。

あれはシドニーオリンピックでしたか、開会式の時、まるで木枯らし紋次郎(古い!)か傘お化けのような七色のマントに絶句し、恥ずかしさを感じた後に怒りすら覚えたのは、記憶に新しいことです(よね?)。
多分、JOCも、あれについては方々からさんざん不評をもらい、叩かれたのでしょうね。
これは何とかしなくては、と、いうことになったのでしょうが、聞くところによると、F社は、公式ユニフォームを提供することが決まるずっと以前から、オリンピックの協賛企業としてサポート活動をしていたとのこと、その努力と姿勢が認められた結果なのかもしれません。
しかし、F社が今回の冬季オリンピックの公式ユニフォームを提供する、というニュースが発表されたとき、それは驚きではあっても決して意外なことではなく、まるで当然のことのように自然に受け止めたのは、私だけではないと思います。
そうか、あのブランドならピッタリだ、と思った方は多いのではないでしょうか。

その理由としては(これはあくまで私個人の感想ですが)、まず、ごく少数の特定の人だけが顧客となるオートクチュールのデザイナーの作品などとは違って、我々が日常生活で目にし、実際に袖を通していることで、F社の“U”というブランドが一般の多くの人に認知され、どういうものかが良く知られていたこと。
そのブランドの特徴であるデザインのシンプルさとカジュアルテイストが、スポーツイベントというシチュエーションで、開会式などで着るいわば公式な制服としてのイメージに合っていたこと。
そして何より、このブランドがデザイン性だけではなく、防寒性や軽量化などの機能を追求して素材を独自に開発したり、製造過程でも縫製やパターンなどの品質面の向上を常に心がけ、それを企業理念として実践していること。
大きくは以上の三点が上げられると思います。

冬のオリンピックでの大きな特徴は、当たり前のことですが、冷たい雪や氷の上で行われるということです。
特に開会式や閉会式での選手や関係者は、氷点下の気温の中でただ歩いたり立ったまま何時間も過ごさなければならず、その時の服装でまず真っ先に求められるのは防寒性です。
次に、着ていて重さを感じたり不自由さがなく、動きやすいこと。
そして、ユニフォームの本来の役割としては、単体での印象やデザインの美しさではなく、何百人と同じものを着て並んだときに、全体としていかに統一され、シンプルに、スポーツウエアのイメージを逸脱することなく、“日本”という国を印象付けることが出来るデザインであるかどうか。
そうした観点から見て、今回のF社提供のユニフォームは、私の目には非常にマッチしているように見え、色やデザインもシンプルでかわいらしく、十分合格点を貰えたのではないかと思います。
そして、この偉業を成し遂げたことで、F社の企業としてのステータスは一気にステップアップし、そのネームバリューにおいて、社会的安定を得たことは間違いありません。

このF社の“U”というブランドは、ご承知のように、今では珍しくありませんが、1900円のフリースや500円のTシャツなどの商品で、カジュアルウエアの低価格化のきっかけを作ったブランドであり、その安さと若者にフィットしたデザインによるMD戦略、そしてTVコマーシャルに代表される独自のイメージ戦略とで、ここ数年、破竹の勢いで売り上げを伸ばし、一時は店頭に並ばなければ店に入れない、というほどの人気ブランドとなりました。
それ以前に同路線を独走していたアメリカのブランド、“G”を軽く追い落とし、ごく短期間の間に株式上場、海外進出を果たし、その戦略の面でも人気の面でも、同業他社が何かというと真っ先に話題に上げるような成功を収めたのです。
しかし、流行の常として、昨年あたりからその勢いにも陰りが見え、一時の熱狂的な人気も下降気味で、F社の社長は新規事業の立ち上げなどを発表し、企業としては転換期を迎えているようです。

このF社のロンドン進出を機に、以前TVで特集番組をやっていたのですが、その番組のタイトルは“捨てられたタグ”というもの。
このF社の“U”というブランドの歴史=発足の頃から現在までを、社長や主立った社員へのインタビューを中心にまとめたものですが、そのタイトルの所以は、ある象徴的な出来事、すなわち実際に“捨てられていたタグ”の話から始まるからです。
縫製工場をやっていたお父さんから会社を引き継いだ今の社長が、低価格のカジュアルウェアーとしてこのブランドを立ち上げた頃、しばらくはその縫製や製造管理の粗雑さから返品や苦情が相次ぎ、“安かろう、悪かろう”という評価が定着してしまいました。
買ってくれたお客さんが修理に出した製品を見ると、首の後ろに付いているブランド名のタグが、なんとハサミで切り取られているということが度々あったそうです。
(それなら買わなければいいと思うのですが)それは、買った人がそのブランドを着ていることを人に知られると恥ずかしい、と思ったからで、その他にも、ブランド名の入った紙袋がお店のすぐ近くのゴミ箱に捨てられていたり、と、顧客が抱いている自分たちのブランドのイメージを端的に現しているこのような実態を目にする度、社長や社員の人達はいつも惨めな気持を味わっていたのでした。
私自身も、数年前からこのブランドの存在は人から聞いて知っていたのですが(その頃は郊外型の店が多く、都心にはなかったのです)、当時はやはり“ただの安物ブランド”という認識しかなく、「“U”を着てデートに来る男なんてやーね」なんて、バカにしていたものです。

そうした有り難くないイメージから脱却するために、社長は一念発起し、まず、安くても誰にもバカにされない好感度で高品質の服、誰もが修理に出さないで安心して着られる丈夫で耐久性のある服を作ろう、と決心します。
そして、価格を上げないため中国の工場に生産基盤を移しますが、熟達した縫製のスペシャリストを口説いて中国に常駐してもらい、まだまだ発展途上の技術しかない中国の職人達をイチから仕込み、日本の基準に合うような丁寧な仕事が出来るまでに育て上げ、“安かろう、悪かろう”から、“安くて良い”服作りを実現するのです。
そして、計算され尽くした広告戦略も、今までのイメージからの脱却に功を奏し、ブランドのブレークは、原宿に店を構えた時に訪れました。
毎日、店の前に行列が並び、店の中に入っても混雑して満足に商品も見られない状態が続いて間もなく、わずか1〜2年の間に日本全国の主要な都市で、大きな門構えの“U”という看板が必ず見られるようになりました。
そして、今では誰もが知っている、おしゃれなカジュアルウェアーのビッグブランドとなったのです。

さて、ここで考えてみたいのですが、“ブランド”とは一体何なのでしょうか。
ファッションの流行に、“ブランド”の存在は欠かせません。
この“U”ブランドがブレイクピークの時、当然、我々の間でも良く話題に上りました。
「今は、上から下まで高級ブランドでまとめました、みたいのは逆に格好悪いし、例えば、UのTシャツの下に、グッチのジーンズ履くとかもアリだし、そういうのが自然に出来るっていうのが格好いいよね」なんて具合です。
でも、それはあくまでも、今現在“U”が一つのブランドとして流行しているから、という現状があるからのこと。
“U”がブレイクした大きな要因は、まず、おそらくそれ以前に“U”の存在すら知らなかった人達が、それまで安くても5〜6000円はしていたフリースのブルゾンが1900円で買える、という値段にももちろん惹かれたでしょうが、何よりTVの報道などで“U”のショップの混み具合や行列のことを知り、「あんなに皆が買っているのなら私も買わなくては」という気持になったことが大きいと思います。
流行というのは、ある時点でのそうした相乗効果によって、ブレイクしていくものなのでしょう。
それは、ヴィトンのバッグだろうと、エルメスのバッグだろうと、グッチの靴だろうと同じことです。
値段が高くても、皆が持っているから、流行っているなら、何とかお金を貯めたり分割払いにしてでも、買いたい。
でも、“U”のフリース、1900円ならすぐ買えるじゃない、1枚だけでなく、色違いで3枚買ったって、どうってことないわね・・・そう、安いものの流行なら、これほど有り難いことはありません。

しかし、どうしてたかが洋服やバッグや靴に、これほど値段の差があるのでしょう。
どうしてヴィトンやグッチやエルメスのバッグは、何十万もするのでしょう。
それは、単に“ブランド”というネームがあるからだけでしょうか。
“ブランド”というネームがあることで、信用と安心を買っているのだ、という説があります。
そもそもヨーロッパのそうした高級ブランドには、おしなべて古い歴史があり、まだ船や馬に揺られて旅をしている頃から、頑丈さや機能性を秀でた職人の技とセンスによって美しい形に昇華し、一つ一つをこつこつと丁寧に手作りで作ってきた、という、その“物づくり”の姿勢によって評価されて現代に受け継がれてきたものです。

例えば日本でも人気の、エルメスの“ケリーバッグ”は、まず1頭の牛から一番上質な部分の皮だけを厳選して使い、もちろん型どりから縫製、金物の取付まで全て手作りで、いまだに一つのバッグを一人の職人が最初から最後まですべて作り上げることを絶対条件とし、その為に一個のバッグが出来上がるのに長い時間が掛かるということです。
そして、出来上がったバッグに付いているプレートには、製造した工場、担当した職人の名前が分かる番号が書かれていて、修理の際には又、その職人が担当するようになっている。
どんなに大量の注文が来ても、決してそうした一連の製作過程は変えず、注文が多いからと言ってまだ一人前でない職人に任せたりはしない(社内で段階に応じて職人の技術試験があり、一人前と認められるまでには何年もかかるそうです)。
ですから、注文してから手元に届くまでに3年待ち、といった事態になってしまうのも当然のことですし、何十万という値段もそうした製作過程を聞くと、納得できます。

要するに、“ブランド”とは、一度確立したその商品に対する信用を保証するものであり、そのメーカーの“物づくり”に対する姿勢を提示するもの、なのではないかと思います。
しかし、私は思うのですが、果たして日本におけるブランドの流行は、こうしたエルメスのような値段に見合った製作姿勢が評価され、それを反映しているものなのでしょうか。
すなわち、品質の高さが値段の高さであり、一生使える良いものを買うために大金を払うのだ、というように。
悲しいかな、単に、“ブランドもの”だから、“流行っているから”、“皆が持っているから”、“持っていると人に一目置かれるから”、というような理由で買っている人が多いのではないか、と私は思います。

F社の社長は、“安くても高品質の服”を目指し、価格、品質両面で一生懸命その努力をして、やっと自分自身が納得できる“U”ブランドを作り上げました。
もちろん、ヨーロッパの高級ブランドとは全く違うカテゴリーのブランドで、生地から手織りでオリジナルを作ったり、ひとつひとつを手縫いで仕上げたり、一流モデルを使ってショーをしたり、ということは一切無く、素材も毎日の洗濯に耐えるコットンが多く、(特にユニセックス品は)暴れても転んでも、現場作業でも大丈夫、という頑固な機械縫いで仕上げられています。
実は私も最近よく買うのですが、驚くのはその値段の安さよりも、ほんとうにしっかりした生地や縫製です。
パンツであれば、ポケットや前立ての部分など、特に使用頻度が高い部分にはきちんと二重ステッチが入っていますし、Tシャツであれば、首周りなどが何度も洗っても伸びないように工夫されています。
よくこれだけの仕立てをしてこの値段で、と思うと、感動すら覚えてしまいます。

“U”は、あくまでも普段着のカジュアルウェアーであり、社長がどうしても“低価格”という部分にこだわったのは正解だったとは思います。
しかし、私は一抹の悲しさと共に考えてしまいます・・・確かに売れている、売れてはいるけれど、これほどまでに品質にこだわり、汚名返上を至上の目的として達成したはずなのに、一体何割の人が“こんなに安いのに品質が良いから”という理由で買っているのだろうか、と。
結局、ブランド流行に左右される大多数の日本人には、ヴィトンもエルメスも、そして“U”も、買う理由は全く同じことなのではないでしょうか。
あくまでも、流行という現象によって社会に認知されているという前提条件の上で、その“ブランド”を持っている、その結果だけで満足しているような気がします。

話を無理矢理こじつけているようですが、オリンピックにおけるメダルも、ブランドそのものと言えるのではないでしょうか。
金メダルを取った、銅だけどメダルを取った、ということが、その選手にとってもその国にとっても、大きなブランドとなります。
その記録はいつまでも残り、メダリストはその時点で、その後の人生が大きく変わります。
先日も、フィギュアスケートの選手の話をTVで聞いたのですが、金メダルを取った後はすぐにプロの誘いが来て、何とその契約金は、十数億円にもなるそうです。
フィギュアスケートでメダルを取りさえすれば、一生困らない生活が保障されるということですね。
いえ、プロにならなくても、例えば社会主義の国では、メダリストには一生豊かな生活を保証するそうですし、企業のタイアップがさかんな現在では、スポーツ用品メーカーのコマーシャルに出るだけで何億ものお金が貰える。
いわば、オリンピックのメダルは、“黄門様の印籠”なのです。

もちろん、スポーツ選手であれば(オリンピックに出られる競技であれば)、誰しも金メダルを目標として頑張っているわけですし、その後の人生までを計画している人がいたって、それは本人の努力の結果ですから、誰も文句は言えません。
先日のTVで、今回、女子のフィギュアスケートシングルで金メダルを取ったサラ・ヒューズという若干16歳のアメリカの選手が「将来は医者になる」と言ったことを受けて、その場にいたコメンテイター達は一様に「何ともったいない」と言っていました。
しかし、私はそれこそまっとうな生き方だと思います。
彼女は、「私はまだまだ若い、だからやりたいことも沢山あるのよ」と続けたそうですが、何と前向きなコメントでしょうか。
彼女にとって、スケートというのは、単にそうした“自分のやりたいこと”のひとつに過ぎないわけです。
金メダルを取ろうが、スケートが素晴らしくうまかろうが、もっと様々な世界で自分の可能性を試してみようとしている。
彼女にとって、金メダルは単なる自分の努力に対するご褒美であって、過去への評価以外の何者でもなく、「将来」は全くそんなブランドとは関係なく自分で新たに作っていこうとしているのです。
見たくないものも見せられたオリンピックでしたが、最後にさわやかな気分を味わうことが出来ました。

F社の新規事業は、何と“野菜”販売だそうです。
消費者を第一に考えた安全で低価格の野菜・・・・おそらく生産方法や流通のシステムを新しく構築するのでしょうが、洋服と同じコンセプトでやるということが、この先どんな業態に進出しても、企業理念としてのブランドアイデンティティを確立することでしょう。
道は険しいでしょうが、是非とも成功してほしいものです。




最近、様々なシーンで良く感じるのは、何においても“境界が曖昧になった”ということです。
それは、例えばデザインという具体的な形状であったり、業種間の境界であったり、風俗や流行であったり、と、かなり広い範囲で表れている現象であるように思われますので、又、今回のテーマも何回かに分けてお送りすることにしました。

まず最初に、我々インテリアデザイン界の中の、業種における“境界の喪失”という現象について書きたいと思います。
最近、若手の建築家がファッションブティックやレストランなど、本来我々インテリアデザイナーがテリトリーとしていた小さな商空間のデザインをするようになりました。
あるいは、日本では従来プロダクトデザイナーの仕事とされていた家具や家電製品のデザインを、空間だけデザインしていたインテリアデザイナーがメーカーから依頼されて商品化したり、ハンドメイドでオブジェや家具を作る工房的な集団や、ディスプレーを専門にしていた人が空間全体のデザインをしたり、と、まさにプロフェッションの境界線が曖昧になってきています。

このようなクロスオーバー的現象は、大きく捉えれば“建築=空間”というカテゴリーで捉えることが出来、一般の人達から見れば、“同じ仕事じゃないの?”という認識かもしれません。
しかし、数年前まで、それらは確かに全く別の職能=スペシャリストとして存在していました。
空間デザインを専門とする人が自分の作品発表の場として、自分で制作費を出して家具を作り、展覧会を開いてメーカーの目に留まって商品化されたという例は以前からありましたし、設計を依頼された建築物の中にあるショップのインテリアを、トータルな仕事の一環としてデザインする建築家も多々います。
又、海外では建築家がインテリアはもちろん、家具や照明器具のデザインをするのが当たり前ですし、建築家としての資格がないとそうしたデザインも出来ない、という国もあると聞きます。
しかし、日本では、依頼主=発注者の違いが、職種の棲み分けを自動的に行ってきました。
例えば、建物をサラから建てたい人や企業は、まず建築士資格のある建築家に設計を依頼し、物販店やレストランなど商売をするためのお店を出したい人や企業は、資格がなくても時代性と造形感覚に優れ、商空間の機能を理解しているインテリアデザイナーに依頼し、家具メーカーや電機メーカーは自分の企業でデザイナーを抱えているか、外部に依頼する場合でもマスプロダクトに適した(その商品の機能を良く知り、構造や強度、制作コストまでも考えた上でのデザインが出来る)デザイナーに依頼する、という具合です。
そうしたシステムが、それぞれのカテゴリーでのスペシャリストを育み、自然と業種間の線引きをしてきたと言えます。

では何故、最近、先に述べたような業種間の“境界の喪失”現象が起こっているのでしょうか。
その第一の要因としては、そもそも我々の肩書きである“インテリアデザイナー”という職種が、一般社会において認知度が低く、非常に定義付けが曖昧である、ということがあります。
“建築家”という仕事を知らない人はほとんどいないでしょうが、“インテリアデザイナーとは、どういう仕事をするの?”と思われる方は多いのではないでしょうか。
その答えについては、詳しくはここではちょっと長くなるので省かせていただきますが、簡単に言うなら、一番多い仕事のスタイルとしては、あらかじめ建築(又は建築計画)が出来上がった状態での空間の、内部や外部に求められる機能を与え、その空間を構成するもの全てにおいてデザインを考え、お化粧を施すことにあります。
基本的には建築家と全く同様に、構造も含めて建物の構想を考える場合もあるし、又、照明器具や家具など、その空間に含まれる様々なものまでデザインする場合もあるし、時には既製品で売られている椅子やテーブルなどを選んでコーディネイトする場合や、絵や装飾品を選び展示する場所を指示したりすることもあります。
要するに、あえて“インテリア”という言葉をそのオリジナルな意味通りに、空間の“内部”と定義付けるのならば、デザインという行為を外へ向かって拡大していけば“建築”となり、内部を構成する様々なエレメントへと凝縮していけば、家具や装飾品、プロダクト製品へとサイズダウンして細分化していくわけです。
それらの指向の道筋は、当然一方通行ではなく、相互に通行可能なことから、“インテリアデザイン”という職種が全てにオーバーラップしてその境界線を曖昧にしているのではないかと思われます。
又、最近インテリアプランナーなどの国家資格も出来ましたが、建築士などのように法的な強制力を持っているわけではないため、その点でも社会通念的には曖昧な捉え方がされている要因であるともいえるでしょう。

二番目の要因としては、最近の傾向として、今までの固定概念にとらわれない仕事の依頼主が現れたこと、更に言えば、従来の職能の範疇での常識に捕らわれない新鮮な発想が求められていることがあげられます。
逆に言えば、“この道一筋”というようなキャリアやプロフェッショナリズムに、ともすれば付きまとう頑固さや固定観念が敬遠され、そうしたスペシャリストの持っている経験や実績からの安心感やノウハウよりも、違った角度からの発想の面白さや奇抜さの方が価値がある、という価値観の変化の現れではないかとも思われます。
“デザイン”という行為自体を定義するなら、それはあらゆる物、あらゆるカテゴリーに共通して存在する物であり、デザイナーという職種も同様にあらゆる物創りの過程で必要な存在です。
デザインする“もの”が、たまたま洋服であったり、車であったり、家具であったり、食器であったり、住空間であったり、商空間であったりする、それだけの違いであって、本来、デザイナーたる者、何をデザインしてもそれなりのプロフェッションを発揮できなければおかしい、という見方も出来ますし、常に新しいものに挑戦したいという“デザイナー欲”は誰しも持っているものです。
ですから、そうした業種間のクロスオーバー化は、デザインする対象物の選択肢が増える、という意味では、我々デザイナーにとって、又、デザイナーの選択肢が増える、という意味では、新しい感覚を求めている依頼主側にとっても、歓迎すべき現象であると言えることは否めません。

しかし、今ここで私は、そうした現象の背後に、あえて一つの危惧を感じていることをお伝えしたいと思います。
それは、本来の職能=プロフェッションの意味に立ち返ったとき、“本当のスペシャリストとは何か”ということが忘れ去られているのではないか、ということです。

まず、我々インテリアデザイナーが、どのように“一人前”のデザイナーとして仕事をしていくようになるのか、ということについてご説明したいと思います。
今までの我々の業界の常識としては、まず、建築やデザインを大学や専門学校で学び、ある設計事務所なりデザイン事務所に入って、そこのボスである先生について実際の仕事を通じて図面や現場のことを、最低三年くらいは学ばないと一人前とは認めて貰えません。
そして、もちろん、デザイナーとしての才能があるという前提の基に、やっと一つのプロジェクトを竣工まで担当するようになって、初めて“デザイナー”という肩書きがつくものです。
それは、建築設計の世界でも、家具デザインの世界でも、ディスプレーの世界でも、同じことでしょう。
そうして、スペシャリストというものが生まれていくのだと思います。

しかし、最近では、先に述べた“クロスオーバー化”の流れの中で、更に柔軟な考え方の依頼主が登場し、又、雑誌などのメディアの指向性から、面白い発想が出来る人間でさえあれば、そうした地道な“研修期間”を経なくても、極端に言ってしまえば、学校を出ただけでどこにも就職せずに、“デザイナー”としての仕事の依頼が来てしまう(又はしてしまう)、というケースもあるようです。
もし画家や彫刻家などのアーティストであれば、どこにも就職せず、独自に“自分の作品”を追求し、作り続けていても、師匠がいなくても才能がある人は認めて貰えるでしょうし、芽が出ないとしても売れない作品が誰かの迷惑になることもありません。
しかし我々の仕事は、ただ眺めて鑑賞するだけの、自己表現の作品を作るアーティストではなく、住宅であれ商空間であれ、依頼主がテンポラリーではなく長期的に“使用する”為の機能をきちんと果たせる空間を作る、いわゆるオーダーメイドではあっても“デザイン”という総合的な技能を買って貰う“ビジネス”であり、クライアントに対してはもちろん、社会に対してもその対価(デザイン料だけでなく施工に掛ける投資額も合わせて)に見合う重大な責任を負うべき、ある意味ではパブリックな仕事だと私は思っています。
そのいわば公共的・社会的な“ビジネス”の部分こそが、独学や情報だけでは決して得られない、長年の実際の仕事の経験を通じて、クライアントを始め、先輩や現場の職人さんから少しずつ学ぶことでしか身に付かないものではないかと思います。

経験がなくても才能があり、斬新なアイデアを持った若い人の登用や、スペシャリストとしてのジャンルの違うデザイナーの登用は、確かに今までにない面白い空間や家具を生み出し、我々従来のカテゴリーの中で仕事をしている者にとっては大きな刺激となり、業界全体の活性化につながることは確かです。
しかし、その反面、そのようなスタイルは、更に別業種との境界線を曖昧にし、新たなクロスオーバー化を生み出す原因となっています。
それは、我々デザイナーの仕事と、そのデザインを最終的に形にする施工会社の仕事との境界線です。
私自身が、最近、図面を描かないデザイナーが増えてきている、というため息混じりの声を複数の施工会社の人から良く耳にすることから感じたことですが、一言でいえば、“デザイナーの仕事とは何をすることか”ということです。
彼らが口を揃えて言うには、確かにアイデアは面白い、でも、どうやって作るのか全く考えていないし、第一、図面が全くないんだよね、ディテールのスケッチすらないし、“どういう納まりでどういう風に見せたいか”と聞いても、“後は考えてよ、それがあんた達の仕事でしょ”とか言われちゃうんだから・・・といわゆる愚痴のオンパレード。
“発想重視”のニーズから生まれた“半デザイナー”達が、自分たちが考えなければならない“どのように造りたいか”というこだわり、それを伝えるために描かなければならない図面の制作までを彼らに振って、施工会社との仕事の境界線を曖昧にしています。

良く私の受け持っている学生にも言うのですが、学校で授業としてやっていること、課題として制作しているものは、本来の我々の仕事で言えば、ほんの入口に立っただけのこと。
いくら、CGで立派なプレゼンテーションツールを作ったとしても、本当の仕事は、施工会社さんが原寸大で実際の物を造って、竣工しなくては終わらないんだよ、ということです。
それを聞くと、彼らは、きょとんとしています。
自分のデザインを架空の空間として、ただの紙やモニター上に“見せて”しまえば、それでもうデザイン業務は終わりだと思っている人が多いのです。
いえ、私自身も教師の立場としては、授業ではそれで十分だと思いますし、実際に造れるのか、とか、それ以上のことを考えて、かえって発想が貧弱になるよりは、“夢物語”をおおらかに表現した方が良いと思っています。
しかし、施工会社さんの嘆きは、実際にいやしくもプロのデザイナーとしてクライアントから全面委任され、結構なデザイン料を貰っているデザイナーの中にも、最近、そうした“夢物語”しか語れない人がいるということです。

我々の仕事で、一番のポイントは何か、と言ったら、私は“コミュニケーション”だと思います。
空間デザインという仕事は、車や洋服、家電製品やマスプロダクトの家具のように、サンプルであっても手に取れる実物を見て貰って、判断して買って貰う、ということが出来ない、世の中にたった一つしかない(あってはいけない)オーダーメイドのものを提供する仕事です。
更に仕事の依頼を受けるとき(若しくは契約を交わすとき)には、全くデザインに手を付けていない訳ですから、実際に買って貰うものがどのようなものになるのか、買い手には全く分からない、という、お金を払う側には非常にリスクのある取引です。
“こんな物を創ります”と、あらかじめ原寸のサンプルを見せることは出来ません(それはイコール実際の空間を造ってしまうことですから)。
だからこそ、よりリアルな縮小スケールの模型や、パース、CGなどによって理解して貰うプレゼンテーションが重要なのです。
そして、もちろん、何故そのようなデザインになったのか、きちんと理解して貰える為には理論的に説明出来る能力も必要です。
要するに、“プレゼンテーション”とは、クライアントとコミュニケーションし、相互に理解するための一番大事な行為だと言えます。

そして、それが無事に合意を見て、次にすべきことは、図面を描くこと。
この実施図面というものこそが、我々デザイナーにとっては“言葉”であると、私は思っています。
すなわち、紙という二次元の世界に表現された決まり事=記号を、三次元の空間に置き換え原寸スケールで実現して貰うために、施工会社さんと交わす言語であり、重要なコミュニケーションです。
例えば、英語の通訳の仕事をしたいと思っている人が、もし、英語がしゃべれなかったら全く仕事が出来ないのと同じように、図面の描けないデザイナーがデザインの仕事をしたいと思っても、本来なら出来るわけがない、と私は思います。
しかし、実は、そうしたデザイナーであってもインテリアデザインの仕事は出来てしまうし、施工会社さんは現場を仕上げてくれるし、又、クライアントも図面の分からない人が多いのが当たり前ですから、見せられた模型やパースとほぼ同じイメージの空間がきちんと出来れば文句を言わないのが通常です。

では、何故、出来てしまうのか・・・・それはひとえに日本の施工会社が優秀だからです。
例え図面が描けなくても、そのデザイナーが表現したい形やイメージをスケッチで説明しただけでも、彼らはきちんと施工図(実際に造り方を考えて職人さん達に指示するための細かい図面)にし、それを元に製作をしてくれます。
何故彼らがそうしたノウハウを身につけたかと言うと、それは長年の経験のたまものであり、その経験は、色々なデザイナーと仕事をし、その度に新しい材料や納まりに挑戦と試行錯誤をし、実績を残してきた中で蓄積された財産なのです。
その財産が、更に我々に“教えてくれる”様々な施工上の知識となり、経験の浅いデザイナーに還元されて行くことになるわけです。

私自身も、デザイナーとして仕事をしてきたこの20年余り、非常に多くのことを、施工会社さんから教えて貰ってきました。
若い頃には、“こんな漫画みたいな図面で見積もれるかよ!”と怒られたこともあります。
何か分からないことがあると、毎日のように電話して相談したりしていました。
そうして怒られ、教えられながら、今があるわけですが、それはあくまでも一社員としてデザイン事務所でボスの下で働いている間、“研修期間”の間に学ぶべき事柄の一環であり、誰もが経験していくことです。
経験不足が無知をさらけ出していても、分からないことを知りたい、という向上心、自分が表現したいことを実現するにはどうしたらよいか、という研究心、少しでも自分の中に知識やノウハウを取り込みたい、という貪欲さがあれば、相手も快く“鍛えて”くれるものです。
そうして、何度もコミュニケーションを繰り返していくうちに、施工会社さんも、ああ、このデザイナーはこういう部分に拘って、こういうことをやりたいんだ、だから我々もこういう部分に気を遣って造らなければなあ、という理解をして、より良い仕事をしてくれるようになりますし、又、やったことのないような納まりでも、何とか出来ないものかと頭を捻って方法を見つけてくれたりして、我々の実現したいものに極力近づくように努力してくれます(そうして出来たものが、又、施工会社さんのノウハウとして新たな財産になるわけです)。
すなわち、一言で言えば、優秀な施工会社さんがデザイナーを育て、又、自分の仕事にスペシャリストとしての誇りと執着心を持って仕事をしているデザイナーが、施工会社さんを育てる、そうした相互協力の循環作用が、今の内装業界のレベルを作りだしてきたのだ、と言えます。

そうして、数多くの“ノウハウ”という抽斗を持っている施工会社だとしても、デザイナーから“どの抽斗を見せてくれ”という問いかけがなければ、抽斗を開けることが出来ません。
言い換えれば、例えディテールの知識がなかったり、初めて挑戦するようなデザインであっても、“自分はこうしたいんだ”という意志を伝えることが出来れば、それを具現化する手段は提供してくれるのです。
施工会社の立場で言えば、コミュニケーションがうまく出来ずに、デザイナーの望みと違う抽斗を開けてしまうことが何よりも“無駄な労力”を使うことになるわけです。
その誤解を極力なくすために、“図面”という共通認識記号が必要なわけですし、それ以上にあらゆる手段で“伝える努力”が必要なのだと思います。

私が“研修期間”を過ごした会社のボスは、良くこのように言いました。
“まず図面を描け、図面を描く時間がなかったらスケッチを描け、スケッチも描く時間がなかったら文章を書け”と。
ですから、私が言いたいのは、もちろん図面を描くことによって自分自身も分かること、身に付くことが沢山ありますが、決して何が何でも図面を描かなくてはいけない、ということではありません。
何よりも大事なのは、自分のデザインでどうしてもこれがしたい、という“こだわり”を持っていること。
そのこだわりを具現化するにはどうしたらよいのか、まず自分一人で知恵を絞って考えること。
そして、どのような手段であれ、それをしっかりと相手に伝える努力をすること、です(施主に対しても施工会社に対しても)。
その気持と姿勢、努力があれば、精密な図面がなくても必ず相手にも伝わります。
そして、それを現場が竣工するまで持ち続けること、です。
“考えること”、“関心を持つこと”を放棄してしまったら、その時点でもうデザインは終わりなのです。

初めに述べたように、最近の空間デザインにおける業種間のクロスオーバー化現象については、私は決して歓迎していないわけではありません。
しかし、もし、自分のプロフェッション以外のテリトリーで仕事をするなら、まず、最低限、その業種で必要なコミュニケーションの手段は身につけて欲しいし、少なくともその努力はしていただきたい。
結果的に一番被害を受けるのは、一番お金を使いながら、目的通りに機能しない物や、すぐに壊れる不良品を買わされる施主であること、そのことをまず考え、分からないなら分からないなりに、奢らずに真摯な気持で、施工会社さんと“共に造る”という姿勢で取り組んで欲しいと願います。
そして、もし、自分の“デザイン業務”とは、プレゼンテーションの段階まででほぼ終わり、と思っているのなら(現場や図面に興味がないのなら)、施主に対して“あとは施工屋さんに任せます”とはっきりと伝え、デザイン料もその部分までの金額で請求すべきです。
自分のアイデアにこそ価値がある、と思っているのなら、そのアイデアだけを買って貰ってください。
それが最初から明確になってさえいれば、施主も施工会社も、迷惑を被らずに済みます。
仕事の内容も責任範囲も明確にせず、通常我々の業務として含まれている図面製作や設計管理まできちんとやるような印象を与え、デザイン料もその作業内容を含めた金額で請求し、その実、図面も納まりを考えるのも施工会社任せ、では詐欺と同じです。

最後に、素晴らしき先輩達のお話を書きたいと思います。
人づてに聞いた話ですが、倉俣史郎さんは、“ミス・ブランチ”という椅子を創る前に、このように言っていたそうです。
“空気がふっと固まって、何もないのに椅子になって座れたらいいね”
“例えばたんぽぽの花が、いっぱい宙に舞っていて、ある時、ふっと浮かんだまま止まったら面白いのに”
彼にとって、そのデザインの基本にあるのは、常に“無重力”と“何も存在しないこと”だったそうです。
そうして、そこからあの、バラにこそ変わったものの、透明なアクリルに花を浮かせるというアイデアが生まれたのでしょう。
そして、彼のデザインをそのように具現化する為になくてはならない存在として、常に一緒に試行錯誤を繰り返し、造ったことのないものに挑戦し、最後には実現してきた施工会社さんやガラス屋さんがいました。
もちろん、倉俣さんという傑出したデザイナーだからこそ出来たことではありますが、その関係性を、非常に羨ましく思います。
決して中途半端なところで妥協しないお互いの“こだわり”こそが、新たな素材やテクノロジーを生み出し、素晴らしい数々の作品を生み出したのではないかと思います。

もう一つ、これは施工会社の人に聞いた話ですが、三橋いく代さんの仕事を良く請け負っていた頃、ある日、時間がない仕事でどうしてもその日に図面を貰って発注しなければならないというとき、三橋さんは夜、そのクライアントと打ち合わせが入っていて、その打ち合わせによってデザインに変更が出るとのことでした。
三橋さんは、その人に“明日の朝、図面を渡すから取りに来て”と言ったそうですが、その打ち合わせは夜中の12時頃まで掛かってしまったそうです。
ところが翌朝、彼が三橋さんの事務所に行くと、本人はいなかったそうですが、何と、前日までは見たことのない図面が十数枚、それも極めて細かく描き込んだものがきちんと仕上がって出来ていたそうです(彼は今まで色々なデザイナーと付き合ってきたけれど、三橋さんほど綺麗で精密な図面を描く人はいない、と言っています)。
図面を描くのが遅い私にとってはとても信じがたい話で、そしてもちろん、図面を描くスピード、というのも特筆すべき能力ではありますが、それより何より、三橋さんの“そうせずにいられない”というデザイナー魂に感動と尊敬の念を禁じ得ません。




------------山本のコメント------------
私の仕事を手伝っていただいているCGデザイナーの戸澤 徹さんに、文章を寄せていただきました。
経歴や、どのようにしてCGデザイナーになったのか、普段あまり聞かれない部分も書いて下さいましたので、CGデザイナーを目指す方達には参考になるかと思います。

「仕事の経歴(学校〜就職〜独立の経緯)」
絵は子供の時から好きだったのですが、実は、高校三年で大学受験に直面するまで、美術大学という存在を知りませんでした。
英語や数学が苦手だった私は、絵で入れる学校があるのかと喜んだものの、やはりそう甘くはなく、結局二度浪人する事となり、なんとか潜り込めたのが武蔵野美術短期大学の空間演出デザイン学科でした。
もともとはグラフィックデザインを指向していましたが、ここで空間デザインの魅力に出会うこととなりました。

大学を出て、初めて就職したのは、アパレル関係のショップの設計を主とした、ヨコタデザインワークスタジオ(以下YD)というデザイン会社で、デザイナーとして、JUNKO SHIMADAというブランドや、ブティック風なデザインをコンセプトとしたCITIBANK銀行などの設計業務を担当していました。
私が入社した頃、このサイトの山本さんはすでに独立して事務所を構えていましたが、同じ会社の先輩にあたり、その関係で知り合いになりました。

YDは、当時のデザイン事務所としては比較的大きな会社でしたが、大体ひとつのプロジェクトを担当するのは一人から多くて三人程度なので、早い時期から現場を知る事が出来たのは非常に良かったと思います。
仕事の流れを覚えるのにもそう時間はかかりませんでした。
しかし、とにかく短い期間で次々と物件をこなしていかなければならないこの世界では、生活も会社を中心としたものになってしまい、終電はおろか早朝まで図面を引いて、そのまま打ち合わせに向かうということも珍しくはありません。
そんな生活の中ではテレビや雑誌などにも目を通す時間さえなく、一番流行に敏感でなくてはならないデザイナーが、逆にそういうものから一番遠い位置にいるのではないか、と疑問に思ったりしていたものでした。

独立を思い立ったのはそんなところが発端になっているかもしれません。
又、私の担当した物件では、プレゼンのためのパースを外部の方へ発注するケースも多くありましたが、よく自らパースを描いていました。
パースはデザインのイメージを表現する重要な仕事であり、初期のデザインを構想している段階においては、その後の方向を決定付ける大切な役割を担っている部分で、私自身、このパースを描いている行程にこそもっともクリエイティブな気分を感じていたように思います。
外部のパース屋さんはテクニックもあり、素晴らしい表現力で忠実に描いてくれましたが、しかし、私の印象としては、あくまでもデザイナーの注文に対して完璧に応える、オペレーター的なポジションであるように感じました。

独立の直接的な動機は、実は、私は学生の頃から“映画を作る”という夢があり、どうしてもいつか自分で映画を作ってみたかったことが大きな理由です。
インテリアデザイナーとして独立して仕事をすることが退社の目的ではないので、とりあえず、将来、自分の夢を実現するために何をするか、というのがまず仕事を選ぶ条件になりました。
“パーサー(パースを描く人)”という道を選んだのは、もちろん、自分が得意である、ということもありましたが、YDでデザイナーとしての仕事に数年携わった中で、自分自身がひとつの組織なり、プロジェクトの決まり事の中で、時間に追われ、様々な交渉ごとや広範で細かい事柄に目を配る、といった作業よりも、自分なりの考え方ややり方で、一つの空間を表現する手段の方に魅力を感じていたことが大きいと思います。
それは、パースを描くという仕事が、私にとっては“視覚表現”という意味合いにおいて、“映画作り”という最終的な目的への線上に位置するものと捉えられたからでもあります。

しかし、プロとして“パース”を生業とする道を選んだ以上、自分なりのパースに対する考え方を、きちんとポリシーとして確立しなければ生活していけません。
私が独立してまず心がけたのは、パーサーとしての役割を、単に忠実なオペレーターとしてではなく、デザイナーと同じ視点に立って共同作業としてこの仕事をとらえて行くことでした。
それは決して簡単なことではありませんでしたが、パース表現においてデザイナーの方とアイデアを一緒に形にしていく作業は、私にとってはごく自然なことのように思いました。
それは私がデザイナーを経験したことによるところが大きいのですが、今後はこういった携わり方のパース表現者も多く求められるだろうと、同時に感じていたからでもあります。
現在の私のモチベーションはこんなところにあるのかもしれません。

------------山本のコメント------------
私自身も色々な方にパースを描いて貰ったことがありますが、十人十色、人によってその表現方法は様々です。
線のタッチ一つ、色遣い一つ、人物の点景一つで、全くイメージの違ったものになってしまいます。
又、我々がパースを必要とする時期は、まだ細かいデザインまで詰めていない段階で、クライアントに対しての、いわゆる“イメージ出し”の目的が主ですから、パースを依頼される側にとっては、表現する部分のメリハリ、というか、ここは大事でここは大事でない、とかの判断を、ある程度想像力を駆使してまとめる“アレンジ能力”が必要になります。
その点、戸澤さんは、もとデザイナーとしての知識や能力で、当然ながら図面をよく理解してくれますし、デザイン自体の相談に乗って貰い、戸澤さんの意見を入れて変更したりすることもままあります。
又、適切な“見せ方”のアレンジがうまく、色彩感覚などのセンスが優れているので、我々が時間がなくてデザインを細かいところまで詰め切れなくても、安心して任せてしまえる、という(ただ単に怠けられる、というだけかも)メリットが非常に大きく、他の人にない利点になっていると思います。
我々デザイナーにとって、プレゼンテーションとは、その仕事が取れるかどうか、又、そのデザインを評価して貰えるかどうか、一番の重要な局面です。
私にとっては、単に我々のデザインを具体化してもらう、という分担作業の一環でなく、デザイン自体を、表現方法も含めて共に創り上げるパートナーとして、なくてはならない存在と言えます。

「何故、CGをやろうと思ったか」
独立してから三年ほどは、手描きでパースを描いていました。
とくに技法にはこだわらず、アクリルやガッシュで描いたり、トレーシングペーパーにペンとマーカーで描く方法など、様々な手法を使用していました。
インテリアの世界では何より速効性が求められる為、時間をかけずにより効果的な、どちらかといえばスケッチと呼ぶようなタッチが主流だったように思います。
ただ、私自身は、その速い時間の流れの中でも常に新しい技法を模索していました。

どうしてもこだわりたかった部分がライティングです。
空間の最も重要な要素は照明だと常々思っていましたが、それを手描きで表現することは非常に高い技術と時間を必要としていました。
又、その頃には下絵としてCADを使用していましたので、そのモデルを使用して3D上でパース表現ができないものか、少しずつ実験を繰り返していました。
ただ当初はマシンパワーもすぐに限界が見え、数百灯のライトに照らされた理想の空間を表現するには、途方もない時間を必要としましたので、ショートサイクルのこの仕事で使えるようになったのは随分後になってからのことです。
しかし、その表現力は到底手描きでは達し得ないものとの印象を強く持ちました。
と同時に、それまでのプレゼンテーションのツールとして使われる枠を、大きく超えるものになるだろうという予感を感じさせるものでした。
実際、現在ではプレゼンテーションやデザイン検証の為だけではなく、広告用途やプロモーション、ネットを中心とした仮想店鋪などにも使用されています。
ご存じのように、映画の世界では、もう十年以上前からCGの技術が当たり前のように取り入れられています。
もともと、私達のように空間の3Dを作るCGと、映画やゲームなどを作るCGでは、使うソフトも進歩の仕方もそれぞれ全く別の世界ですが、前述したように、“映画を作る”という夢の軌道上にあった私の表現手段として、手描きのパースからCGパースへの移行は、更に、印刷されたペーパーツールとしての3DCGから、ウォークスルーなどの動画CGへ、“動く絵作り”へと着実に歩む大きな転機になったと言えます。

------------山本のコメント------------
私は、手描きの時代から戸澤さんにパースをお願いしていましたので、今でも戸澤さんの手描きパースのファンでもあります。
正直言って、戸澤さんがCGを始めたと聞いた頃、私自身はコンピューターに触ったこともなかったので、CGパースなど味がないという変な先入観があり、しばらくは“手描きで”と注文を付けていたほどです。
しかし、後にCGパースをお願いしてからは、いくら機械を使ってデータに基づいて作る絵、とはいえ、全く手描きと同様にその制作者の個性が如実に出るもの、と認識を新たにし、改めて戸澤さんのCGパースのファンになりました。
最近の戸澤さんの仕事は、空間の静止画CGに留まらず、ウォークスルーはもちろん、車や歯磨きなどのコマーシャルのムービー、何とある実在の人物の歌っている姿までと大変幅広いご活躍ぶりです。
いわゆるCG通に言わせると、戸澤さんの凄いところは、それらを全て“STRATA”というソフトで作ってしまうことだ、ということです。

「印象に残った仕事」
最近携わった仕事で、あるショッピングモールサイトのCD-ROMを製作する仕事をディレクションする機会をいただきました。
これは3Dで構築したブティックの中を自由に歩き回り、買い物を楽しめるといった内容のもので、こういった企画はこれまでにもいろいろな形で試みられてきましたが、私の知る限りリアリティーあるバーチャル空間として成立したCD-ROMコンテンツは今まで見たことがありませんでした。
こうしたバーチャルショップを構築することは、CGによるパース表現のひとつの完成型と常々思い描いていましたので、私にとってとてもやり甲斐のある内容でした。
ただそれを実現する為にはさまざまな困難な問題があり、一番決定的なのがやはりマシン速度やCD-ROMの問題で、リアルタイムに3D空間を歩かせるにはまだまだパワー不足なことです。
その為に歩行ルートをあらかじめ決めて、VR(QuickTimeの技術のひとつで、ある地点を中心に360度周囲を見渡せる)とムービーを組み合わせて、あたかもリアルタイムで空間を移動しているように見える方法をとりました。
それでも用意するVRとムービーは莫大な量となり、作業時間も数カ月に及びました。

又、これらをオーサリングする為にDirectorというソフトを使用したのですが、これらの素材や音楽を全て統合した前例はほとんどなく、その相性の悪さも手伝って、オーサリング作業は良好な結果が出来るまで、様々な実験を繰り返す事になりました。
その苦労もあってか、出来上がったこのコンテンツは、アパレルはじめ各業界でも大変評判がよく、後からわかったことですが、VRとムービーを組み合わせたこのコロンブスの卵的な発想で生まれたこの手法は、世界的にもほとんど前例がないとのことでした。
又、CD-ROMがすぐに陳腐化しないように、中の画像や情報などはflashを使って、WEB上からリアルタイムで呼び出す仕組みを使ったのですが、この技術も現実に達成した前例はやはりほとんど初めてではないか、との事でした。

この仕事をやってみて実感したことは、最初の発想がもっとも大切だということ、そして、それを実現する為には苦労を惜しまず諦めないでやり続けることだということ。
これらの作業の難しさを最初から認識していたら、もしかしたら計画の初期段階で断念していたかもしれません。
不眠不休の凄まじい生活を余儀無くされたのは辛かったですが、こうした初の試みが実現した時の喜びは、CGを職業にしていて最もよかったと思える瞬間です。
又、必ず次のステップへの糧になる事も同時に実感することが出来たのが、何よりの収穫でした。
現在もWEB 3Dなど、こうしたバーチャル空間に適した新しい技術が次々開発されています。
今後更なる表現を目指して挑戦してきたいと考えています。

「今後のCGデザイナーのあり方について/CGデザイナーになりたい人たちへのアドバイス」
先にも触れましたが、これからのCGデザイナーは、クライアントやデザイナーからの注文に忠実に応える、単なるオペレーター的な役割だけでは成立できなくなってきている時代だと思っています。
そこに介在する以上、より初期段階から関わり、クライアントやデザイナーと同じ視点、発想で、より多くのアイデアを提供し、形にしていく資質が問われています。
そこには卓越した技術力も必要ですが、それ以上に、多くのさまざまな事に対する素養を身につけなければならない必要性を感じます。
これからCGの世界を目指し勉強している方々も多いと思いますが、CGデザイナーといっても、決して特殊な職業ではありません。
いかにCG表現が卓越していても、やはり他の職業と同様に人間関係に支えられている世界であり、人とのコミュニケーションなしには成立しません。
より多くの時間をCG以外のことに興味を持って接することが必要ですし、人との関係が一番大切です。

又、よく言われる事ですが、CGというのは表現手段のひとつに過ぎません。
幸か不幸か、今は絵筆よりもパソコンの方が気楽に触れるという時代になりつつあり、絵を描く最初の機会がモニター上で、という方も少なく無いのかもしれません。
しかし、ほんの数年前にはこんなツールはこの世に存在していなかったものであり、あくまで現在のCG表現は手描きで描いてきたものの延長線上にあるものだと思っています。
デッサンの話を持ち出すと、若い人には耳の痛い話だと思うかもしれませんが、デッサン力のない人にはどのように優秀なツールを使っても、正確な表現など出来るわけもなく、現在活躍している人のほとんどはアナログな手作業を経験してきた上で、結果として辿り着いた表現手法のひとつにCGがある、ということです。
常に発想は比較的アナログ的な思考から出発している事がほとんどで、ひとつの作品が完成するまでには幾つものスケッチを描いて構成を練り、最終行程としてCG利用して表現しているといった感覚でしょうか。

こういった行程は、今の時代にはとても学びづらくなっている事柄かもしれませんが、既に存在するCG作品から触発され、発想するのではなく、CGを単なるツールとして捕らえて、現実の世界の空間や立体をよく観察し、そこから発想する訓練をしていって欲しいと思います。
今あるCG表現はまだ始まったばかりであり、その作品達はまだその過程のあるひとつの段階の結果に過ぎません。
より高い表現を目指す為のヒントは、既にあるCGの中にではなく、現実世界の中にあるのだと思っています。
私を含めてこれまでの世代の人達が作ってきたCGに捕われることなく、新たなCGの世界を作り上げるパイオニアになるような意識で、CGの世界に足を踏み出していって欲しいと思います。
私自身も、今後共、未知の世界や、自分の不得手としているジャンルの仕事にも、より積極的に挑戦していこうと考えています。

------------山本のコメント------------
戸澤さん、お忙しいのに丁寧な文章を寄せていただき、本当に有り難うございました。
戸澤さん自身のサイトでもなかなか伺えないような貴重な内容、これは保存ものですね。
皆さん、如何でしたか。
私が桑沢で教えている学生達のなかにも、デザイナーよりも、CGアーティストになりたいと考えている人もいるようですし、そもそもインテリアデザイナー自体が、CG制作者だと勘違いしている人もいます。
時代的には、いかにも“旬”の職業ですし、何と言っても華があって、格好良いイメージがありますよね。
でも、実際、その仕事の内容は、コンピューターに向かいっぱなしの地味な作業ですし、いい加減なデザイナーの指示に振り回されたり、常に時間に追われて不規則な生活を余儀なくされる、という結構ハードなものです。
このページでも就職のお問い合わせへの答えなどで何度か書きましたが、それでも続けられる、というモチベーションは、やはりその仕事を好きかどうか、という点につきると思います。

今後、CGデザイナー志望の方の数も、どんどん増えることと思いますが、結局は仕事として評価されるのは、その人にしかない個性と仕事に対する誠実さだと思います。
又、戸澤さん自身が書いていらっしゃるように、人との信頼関係が一番大切です。
私自身も、十年以上の戸澤さんとのお付き合いの中で、後輩でありながら、戸澤さんに教えて貰い、成長させて貰ったことは、数え切れないほどあります。
又、戸澤さんとのお付き合いがきっかけで、広がっていった人の輪、というものも大きな存在です。
要は、仕事であろうと趣味であろうと、損得勘定ではなく、それを愛し、人を愛せること、それが一番の成功の秘訣ではないかと思います。

そして、戸澤さんの言うように、仕事以外の社会全般の出来事や芸術、文化などにも常に興味を持って接すること。
コンピューター相手の仕事をしている人には、仕事以外何も知らないオタクっぽいイメージがありますが、 戸澤さん自身は、映画や美術関係はもちろん、音楽、車、その他非常に多岐な分野で造詣が深く、話題も豊富で、広範な人脈を持ち、仕事以外の話をしている時にこそ時間を忘れて、語り合ってしまうこともしばしば。
そうしたあらゆる興味の対象があることが、現実には存在しないバーチャルの表現に、人間的な暖かみやリアリティを与える大きな要素になっているのではないかと思います。

戸澤さんの作品は、以下のサイトでご覧になれます。
http://www.tozawa.com




私の好きなテレビ番組のひとつに、NHKの“プロジェクトX”という番組があります。
ご覧になったことがありますでしょうか?
ご覧になったことがない方のために説明しますと、これは多分昨年春頃から始まったと思うのですが、日本で何か初めてのこと、それは大きな公共工事だったり、技術革新だったり、一つの法律だったり、スポーツチームだったりと様々なのですが、一つのプロジェクトに関わった人達を丹念に取り上げた、一回ごとに(時には前・後編に分けるときもある)完結するスタイルのドキュメンタリー番組です。
45分という時間では、そのプロジェクト達成までの全てを語るには短すぎる感もありますが、毎回きちんとポイントを押さえて、なかなか感動的な物語に仕上がっています。
仕事柄、やはり技術者の人達の物語はとても興味深く、感動しますし、素晴らしいリーダーがいても、決して一人だけの偉業ではなく、その周りで様々なスペシャリストが力を合わせて色々な問題を解決し、ついに成し遂げていく様は、サッカーなどのチームスポーツに共通する、まさに有機的なチームプレーそのものと言えます。

男女機会均等法施行に関わった女性や、先のオリンピックで銀メダルを取った女子ソフトボールチームの話など、女性を主人公にした話もありましたが、私は何と言っても、世界で初めての物を作り上げた技術者の人や、工事関係の人、職人さん達の話が好きです。
今までの放送の中で印象に残ったのは、例えば、初めてVHSビデオシステムを創った人達の話、東京タワーを造った人達、青函トンネル工事に携わった人達の話、薬師寺の塔を復元した宮大工の西岡さんと設計の検証をした大学教授の話、新幹線を創った人達の話、日本で初めてコンビニエンスストアを作ったセブンイレブンの話、今では新潟の代名詞とも言える高級米コシヒカリ誕生の話などです。
もちろん、日本を技術立国として知らしめた立て役者のホンダ、ソニーの話も登場します。

ホンダは、世界で初めてと言われる低公害のCVCCエンジンを開発したときのこと、そしてソニーは初めての日本製トランジスタラジオを世界市場に売り出すときのことでした。
もちろん、日本で一番という腕を持った職人さんや、飛び抜けた知識を持ったスペシャリストが主役ではありますが、しかし、中にはこれほど素晴らしい後世に残るものを創りだした人達が、決してエリート集団ではなく、会社のいわばお荷物的存在だったり、その分野では全く経験のないど素人だったり、強力なバックアップもなく最低限の人員しか与えられない中で、時には過酷な自然や、時間制限などの壁と戦いながら、失敗を繰り返し、それでも諦めずに死力を尽くして、ついには成し遂げる、というまるで映画のようなドラマが、実際にあったことに驚きをおぼえます。

例えば、VHSビデオを開発したビクターのVTR事業部の伝説的な部長の話。
時代は今から30年ほど前、その当時、まだ家庭用ビデオは開発されておらず、大きく、重く、非常に高価な業務用ビデオしかなく、どこのメーカーもこぞって家庭用ビデオの開発に取り掛かっていた時期でした。
ビクターも業務用ビデオは作っていたのですが、品質が悪く、倉庫には返品の山、赤字続きのVTR事業部はもう無くしてしまおうという意向が会社内部で検討されていたほどの時、新しくVTR事業部の部長に任命された技術者がある日、外国で論理的には可能とされていたVHS方式の論文を何かで目にし、リストラを目前にした270人の社員の命運をかけて、VHS方式の家庭用ビデオを開発しよう、と思い立ち、本社には内緒でたった数人の秘密のVHS開発プロジェクトがスタートします。
VTR事業部は、独立採算で本社とは切り離された部署だったため、会社の運転資金、開発費などの経費で本社からの借入金は増えるばかり、風当たりが日増しに強くなっていく中、部長は本社から経理担当の課長を呼び入れて本社との窓口になって貰い、事業部存続のため、何とか開発を続けられるように嘘の売り上げ見込みや事業計画書を出して、部下の給料だけでも支払えるように説得を続けます。

何度も失敗を重ね、そろそろ会社に内緒にするのも限界という頃、ソニーが家庭用ビデオのベータマックスを開発したとのニュース。
その素晴らしさに、日本ばかりか世界のメーカーがベータ方式を取り入れようと動き出した頃、やっとVHSビデオが誕生するわけですが、その開発チームのリーダーがまず真っ先にしたことは、親会社の社長である松下幸之助を工場に呼んで、試作品を見せること。
技術者の説明の途中、松下はVHSビデオデッキ1号機に頬ずりをせんばかりに近づき、“良い物を創ったね”との言葉を掛け、更に松下は、“ソニーのベータマックスは100点満点だけど、このVHSは150点だ”と続けます。

部長が次にしたことは、何とその試作品を日立製作所のVHS事業部の技術者に見せること。
そして更に、VTR事業部のあるほとんどのメーカーの開発部に、その試作品を貸し出すことでした。
持ち込まれたメーカー側はもちろん驚きましたが、彼はその意図を、“世の中にこのシステムを普及させる為には、1メーカーがその技術を独占してはいけない、皆で協力してよりよい物を創りたい”と説明します。
そして、ビデオ戦争と言われたベータ対VHSの戦いの結果はご承知のようにVHSの圧勝となりました。

彼の中には、そのシステムの対立の問題があり、それをクリアーするには“数の論理”で対抗するしかない、という計算があったのだとは思います。
又、当時、ベータ方式には“機械本体が大きく重い”とか、“録画時間が短い”など、家庭用には不向きな難点が解決されていませんでした。
ベータの画質は越えられないけど、それに近い物に極力近付けさえすれば、難点を解決できるVHS方式が、絶対に世の中に受け入れられる、との自信があったのでしょう。
実際、驚くほどの小型の本体に納められるシステムや、2時間録画の技術はビクターの技術者が独自に開発したものです。
そして、試作品を預けられた各メーカーは、その後、フロントローディングやタイマー、液晶表示などの部分で得意の技術を提供し、VHSビデオデッキをより使いやすいものへと進化させていきました。
今、我々が当たり前のように使っているVHSビデオの姿は、各メーカーで形やディテールこそ違え、実は全ての家電メーカーの知恵と技術が結集して出来た物なのです。

又、セブンイレブンの話では、いまでこそ親会社のイトーヨーカドーを、売り上げ、利益率共に抜き、日本を代表する大企業になりましたが、そもそもの初めはたった二人の若いけれども窓際族の人間(もちろんイトーヨーカドーの社員)が、なにか他業種を開発しろ、との命令を受けて、何の心当たりもなく取りあえずアメリカに探しに行くか、と少ない出張予算でアメリカに行ったことから始まります。

安いモーテルを泊まり歩き、グレイハウンドバスに乗って、当てもなく広いアメリカを歩き回っていたとき、ふとある日降りたバスの停留所の前で、夜だというのに煌々と灯りのともった“SEVEN-ELEVEN”という看板を掲げたお店を目にします。
暗い夜道で、何とも暖かく人を迎え入れるような佇まいに感動した二人は、“これだ”と思い、翌日にはSEVEN-ELEVENの本部に押し掛け、戸惑う初対面の相手を説得し、何とイトーヨーカドー本社の了承も得ずに契約を交わし、高いマニュアル本を買って帰ってしまったのでした。
当然、二人は日本に帰ってから大目玉を食らい、何と“お前たちで会社を作れ、イトーヨーカドーは一切協力しない、資本金も半分だけ出してやるからあとは自分たちで調達しろ”と事実上解雇ともいえる仕打ちを受けます。

彼らは、仕方なく自分の貯金をはたき何とか会社を作りますが、ところが高いお金で手に入れ、 アメリカから持ち帰った“黄金の宝”と思っていた フランチャイズのマニュアル本が、翻訳してみると何と“レジの打ち方”とか、”アルバイトの使い方”とかしか書いてなく、一番知りたかった商品のことは何も分からない、全く役に立たない内容。
そこから、日本独自の“コンビニエンスストアー”の草分けとなったシステムの試行錯誤の苦労が始まるわけですが(その話は長くなるので省きます)、そんな全くゼロからのスタートだったのです。

そして、たった二十数年の間に、セブンイレブンは皆さんもご存じのように、親会社のイトーヨーカドーを上回るほどの売り上げを誇る企業となり、今でも、その時の二人は会長と社長の座にいます。
今から3年ほど前、アメリカのSEVEN-ELEVEN本社が、経営危機に陥ったことがありました。
その時、日本の セブンイレブンはすぐさまアメリカに駆けつけ、何と今度は日本で独自に作り上げた“本当の”マニュアルを先方に無償でプレゼントし、経営の立て直しに尽力したということです。
その頃のアメリカ SEVEN-ELEVENの社長が、番組の中で“当初、我々は日本の市場など全く考えていなかったし、何の期待もしていなかった。まさかこのような形で日本に助けて貰うことになろうとは・・・日本の SEVEN-ELEVENには、本当に感謝している”と語っていました。

最近の話では、初めて南極の昭和基地を造ったときのことが感動的でした。
時代は、まだ敗戦の色濃く残る昭和二十年代。
一人の研究者が、南極をテーマにした国際会議に出かけ、そこで、何故敗戦国である日本の者がここにいるのか、となじられ、言葉の勢いで、南極観測に参加するために来た、と言ってしまいます。
それなら、やってみろ、ということになってしまい、そこから、民間主導での南極観測隊プロジェクトが始まるわけですが、いわゆる政府=お役所はけんもほろろで、全く協力してくれずに途方に暮れていたところ、朝日新聞がその話題に飛びつき、協力を買って出てくれました。
新聞にその記事が出たところ、ちょうど敗戦のあとに意気消沈していた国民は、この夢のある話題に胸を躍らせ、一気に国家的な関心事となって注目を集めます。

言い出しっぺである研究者は、南極の自然環境についての知識はあっても、行ったこともない極寒の地へたどり着くいわば探検については全くの素人で、何をどうすればよいのか全く分からず、どのような装備を用意し、どのような建物を建てたらよいのかも全く分からない。
そこへ、冒険心と夢心のある様々な人が参加したいと協力を申し出ます。
まず、日本では第一人者とも言える著名な探検家が越冬隊を率いてくれることになり、ただ単に南極に行ってみたいと言うだけで参加した血気盛んな若者達の、越冬の訓練が始まります。
そして、装備面では、流氷を砕いて進むことの出来る頑丈な船探しが第一の関門なのですが、新しい船を造る予算も時間もなく、やっとの思いで探し出した中古の船は、幽霊船と見まがうほどのぼろぼろの船。
その船を、出発予定日に間に合わせるために、採算度外視で、連日徹夜で改修作業をしてくれた造船所の人達。
そして、厳寒の中でも使える(オイルの凍らない)バッテリーを提供してくれた会社。
トランジスタラジオを改造した雪の中でも交信できる小型の無線機を提供してくれた会社。
何と、その二つの会社は、まだ小さな町工場だったホンダとソニー。
こんなところにも、ホンダとソニーが・・・このことは、今のホンダとソニーの姿を、理念という 一本の糸で繋ぐことの出来る、印象深い出来事だと思います。

又、何より重要なのは、極寒の地で、隊員達の命を左右する基地の建物。
その開発と製作を請け負ってくれたのは、竹中工務店。
風速100メートルにもなる吹雪とマイナス40度もの寒さから守ってくれる堅牢さと、船に積んで運べて、現地に着いてから組み立てられる、という条件を満たすものを、材料から構造まで、たった一人の若者が考えに考えて、ぎりぎり出発の数日前についに完成させます。
それは、現在一般に普及しているいわゆるプレファブ住宅の原型となりました。

そうしたその当時の技術の粋を結集してついに出発した南極越冬隊。
遠征の道中でも、到着してからも、初めての経験の連続で、生死に関わるほどの様々な苦難に見舞われます(その間は省きます)。
しかし、その初めての南極越冬の中で、日本の隊員達は、南極の石やオーロラについての素晴らしい研究成果を持って、無事に帰還を果たします。
そして、その後、途切れることなく続けられた日本の南極観測隊は、後に、世界で初めて“オゾンホール”を発見し、全世界に対して環境破壊への警鐘を鳴らすことになったのでした。

“意気に感じる”という言葉があります。
損得ではなく、やりがいがあるからとか、面白いからやってやろう、もしくは、自分の力が是非とも必要と頼まれれば嫌と言えない、といった場合に使われるものでしょうか。
この番組で取り上げられるドラマには、そうした“意気に感じ”て行動した人達が、個人としてだけでなく、企業という組織としても、大勢出てきます。
そこには、一個人や一企業の利己的な利益のためではなく、世の中の人全ての利益のためという使命感と、又は単に“そこに山があるから”登る、というような誰もやったことのないものへの挑戦心があるだけです。
中には、すでに亡くなっている方もいますが、驚くのはかなりの方々が、今でもご健在であるということ。
そして、皆、実に曇りのない涼やかな表情をして、その自分の成し遂げた事に、本当に誇りと満足感を持っていることが、言葉の端々に感じられます。

印象的だったのは、東京タワー建築のプロジェクトに参加した、その頃は若干二十代の若者だった鳶職の人と、その婚約者の話。
その仕事の間にお見合いをし、ずっと返事を迷っていた相手の女性が、どんな仕事をしているのだろうと、ある日東京タワーの現場へ出かけていったとき、お見合いの時とはまるで別人のように、生き生きと、高いところで難しい仕事をこなしている彼を見て、その格好良さにほれぼれとし、結婚を決意したといういきさつです。
そして、最近になって、その鳶職の人が子供を連れて東京タワーに登り、“これはお父さんが造ったんだ”と、何とも誇らしく子供に語っている姿に、本当に羨ましい思いを抱きました。

私は、2、3年前から良くテレビに登場する、皆さんも良く知っているいわゆる“IT時代の寵児”と言われている、ある大手検索エンジンの日本法人の社長が、インタビューの度ごとに“ITは儲かる”と繰り返すのを見て、いつも“どうしてこんな人が偉いのか”と、違和感を覚えていました。
そこには、例えばITが誰を幸せにするのか、とか、ITの何が世の中のために役に立つのか、という理想はなく、新しいビジネスモデルとしての戦略が語られているだけです。
どよんと濁った目のその人の顔には、どうしても“金、金”と書いてあるように思えて仕方ないのです。

そんな人の言うことを神のお告げのように奉って、“これからはITだ”などと踊らされる政府にも、一般企業にも責任はあります。
確かに、誰かが考えたものを“うまく利用する”のは手っ取り早いビジネスの方法論ではあるかもしれません。
しかし、今の先進国日本を造ったのは、この“プロジェクトX”に出てくるような、 “意気に感じ”て行動した人達や、自分の好きな仕事のためなら寝ることも惜しまず物を創ってきた人達です。
会社や組織の人間としてではなく、一人の人間として、自分の信じるものを譲らずに追求してきた人達です。

21世紀、ほとんど不自由のない環境と先進技術に囲まれ、 快適な生活を謳歌している私達。
今後、大きく世の中を変えるほどの技術革新やインフラ整備は、もう、それほどあり得ないかもしれません。
しかし、時代や形は違っても、彼らの残した使命感と不屈の挑戦心を受け継いでくれる人や企業が、必ずいてくれることを信じたいですし、我々も物造りに携わる者の端くれとして、その心意気を忘れずに、一つ一つの仕事を大事にしていきたいと切に思います。

最後に、これは別の番組で知ったことですが、本田宗一郎が社長を退任するきっかけとなった出来事を書きます。
ホンダが、 CVCCエンジンを開発しているときのこと、すでに若い技術者と本田宗一郎との間には、そのエンジンの方向性について、意見の相違があったということです。
しかし、若い技術者達が、社長の考え方よりも自分たちの方法の方が絶対にうまくいくと信じて譲らず、ついに完成のめどが立って社長に報告に行ったとき、本田宗一郎は“これで、ウチも世界の(自動車メーカー)トップスリーに肩を並べられるな”と言ったそうです。
それを聞いて、その開発の責任者は怒りをあらわにし、“社長、我々は、会社を大きくするために開発をしてきたんじゃありません。この低公害エンジンが出来れば、世の中の為になる、それだけを思ってやってきたんです。そして、今までずっと、ホンダはそういう会社だとばっかり思っていました。今、社長の口から、そんな言葉を聞くなんて、情けない思いで一杯です”と、本田宗一郎に食ってかかりました。
それを聞いて、本田は、“ああ、俺ももう終わりだな。あとは若い者に任せよう”と社長退陣を決心したという話です。
まだまだ、引退には若すぎる歳でした。



昨年秋に、韓国風焼きふぐのお店“安東(ANDONG)”という飲食店の仕事をしました。
“RESTAURANT”のページに写真をアップしましたので、ご覧になってみて下さい。
今回は、その仕事の際に起こったある出来事について書きたいと思います。

飲食店の設計は、何と言っても設備関係に大変気を使います。
今回のお店は、特に、テーブルに置いた七輪(炭火)で、タレの付いたふぐの肉を焼きながら食べる、といういわゆる焼き肉屋の“ふぐバージョン”ですから、まず換気と空調のシステムが一番のポイントでした。
オーナーも、最初の打ち合わせの時からそのことばかりを気にされていて、“お金は掛かっても仕方ないから、空調と換気は完璧な店にして欲しい”ということでした。
設計の早い段階から設備業者さんに関わっていただき、まず設備設計を先にして貰ってから天井高やデザインを決めるという設備優先の進め方で、フィードバックを繰り返し、実施設計、現場工事と、まずは順調に進み、十一月初めに予定通り無事引き渡し、そしてオープン前のレセプションの日を迎えました。
“ある出来事”とは、このレセプションの日から始まったのです。

この日、我々工事関係者は、お客様として招待を受けてはおりませんでしたが、何かあったら困るので、レセプションの間現場に待機していて欲しいとのことで、私と施工業者の担当者、そして設備業者さんは、開始時間より少し前に現場に行くことになっていました。
しかし、私も施工業者の担当者も、換気を初め設備については何度も試運転を繰り返し、微調整も行っていましたので、“何もあるはずがない”自信がありましたから、形式的な立ち会いのつもりでおりました。
ところが、何と、“何かあって”しまったのです。

私がお店に着いたとたん、店長さんから“暑くて暑くてどうしようもない”との訴え。
実は、このお店ではテーブルに出す炭火を熾すのに、合羽橋の“釜○”という専門店から、オリジナルの“炭火熾し釜”なるものを2台入れ、それをパントリー部分に店内に見えるように設置しました。
その釜の置いてある場所周辺が、とても我慢できないほど空気が熱くなっていたのです。
これからまさに40人ほどのお客様を迎えるにあたり、炭は満杯に入っていて、火はガンガンに熾きていますが、 もちろん、その釜の上部には専用の換気フードがついていますので、熱は上に逃げて行くはず。
しかし、実際、どよんと熱した空気が漂い、炭の焼ける臭いが客席の方まで広がっています。

原因が分からないまま首を傾げているうち、施工業者の人が到着し、すぐさま見て貰うと、何と防火ダンパーが落ちてしまって、同じダクト系統のその部分と厨房の換気が全く止まってしまっているとのこと。
幸い、各テーブルの換気は別系統なので、そちらの方は効いていたのですが、何と言ってもメインの換気が止まってしまっていては影響は明らかです。
さあ、それから慌てたの何の。
もうお客様はどんどん来てしまい、設備業者さんは交通事故に巻き込まれて、なかなか到着しない。
施工業者さんは、急いで道具を取りに帰り、何とかダンパーを開けようと外で四苦八苦するうちに、お店は満席になり、タレの焼ける臭いがお店に充満、空気も煙っています。
結局設備業者さんが一時間遅れで到着しても、なかなかダンパーが開けられず、とうとう、レセプションの間中、その状態が続いてしまったのでした。

原因は、炭火熾し釜の熱でした。
実はこの釜はこのお店の店長さんが見つけてきたのですが、これを入れるにあたって、私と店長さんと厨房業者さんとで、事前に“釜○”まで行き、実際に目で見て、そこの社長から色々話を聞いていました。
この釜の構造は実にシンプルで、耐火煉瓦を厚い鉄板で囲い、上に鉄板の蓋を乗せているだけのもので、使い方は、ガス台で火を熾した少量の炭を最初に入れ、その上に炭を乗せて自然に火を回していく、というだけのものです。

我々はやはりその釜に伝わる熱のことを一番心配し、私は当初、その釜を置く部分はピザ釜のように耐火煉瓦で区画しなければならないだろうと考えていました。
しかし、その時に社長が言うには、耐火煉瓦が入っているので、釜の外側は全然熱くならないから素手で触っても大丈夫、ずっと触っていれば低温やけどくらいはするかもしれないけれど、その程度だから隣に家具や冷蔵庫を置いても大丈夫だし、客席のゾーンにそのまま置いているお店もあるくらいだし、換気フードもなくても大丈夫、と自信たっぷりだったのです。
設備業者さんも、一番、その釜のことを心配していて、その社長の話を伝えても用心してカロリーや温度は高めに設定して、換気量やダンパーの設計をし、それに基づいて換気フードも付けたのですが、ところが、ところが。
実際は、全く我々の予想の何倍もの熱が発生して、それが防火ダンパーを落とすことになってしまい、隣に設けた木製の吊り戸棚の塗装まで焦がす始末。
そして、釜自体も、手で触れるなんてとんでもない、ちょっとでも触ろうものなら大やけどをしそうな全くの熱の固まりと化していたのです(あとから設備業者さんが鉄板の温度を測ったら95度でした)。

結局、一番怒ったのは、実際に社長にあって話を聞いた私と店長さん。
釜○の社長の営業マン的な説明を真に受けた我々が悪いと言えば悪いのですが、それにしてもその釜を買ったのは安東が初めての客ではなく、もう、50台も売っていて実績があるとのこと、その人が自信たっぷりに言うのですから、“そんな素晴らしい釜なら”と思ってしまうのも仕方ありません。
そして、そのレセプションの日、その釜のせいで振り回された私たちは、すぐさま、近日中に釜○の社長に説明に来て貰うことにしたのでした。

社長が、専務である息子を連れて安東に登場したのは、その3日後くらいのこと、忙しいという社長の予定に合わせて、私と施工業者さんも時間をやりくりして現場に行きました。
まず、店長さんがレセプションの日の顛末を社長に伝え、なにを根拠に“熱の心配はない”と言ったのか、実際納品した他の店で釜の鉄板の温度を測ったり、データは取っているのか、そうした店から同じようなクレームはないのか、もし、当初から熱の心配はないなどという言葉を聞かなければ、設計だってそれ相当のことを考え、釜を置く場所も考えたのに、ということを冷静にお話しされました。
社長が言うには、データは一切無い、何故なら我々は釜を売るだけでその後のメンテナンスは一切しないし、今までこの釜を開発してから5年間で50台から100台くらい売ったが(この数字が極めて曖昧で、話す度に台数が違っていたりする)、一つもこのような話を聞いたことはない、とのこと。
安東では、満席で七輪の数が11台必要なのですが、レセプションの日もただ単純にその11台で必要な量の炭を熾しただけなのに、熾した炭が多すぎる、とか、蓋を全開にしたからだ、とかこちらの使い方が悪いような言い方までします(蓋を全開にしないと炭火が消えてしまうのです)。

確かに、この釜には上部に同様の厚い鉄板で蓋がついていて、それが真ん中で二つに分かれていて、蝶番で開閉できるようになっています。
そこから新しい炭を入れ、下についているスライド式の別の窓から、熾きた炭を取り出すようになっているのですが、先方の店に行ったときにも蓋を半開きにするとかの説明もなかったし、その蓋自体、途中で開口角度を調整するような機能は何も付いていません。
その蓋も、ただ釜の上に乗っけているだけなので、社長が自分で蓋を動かしてみたときに、すべって落ちてしまったほどです(とても重いので、足の上などに落ちたら骨折するほど)。

とても弁が立ち、しゃべるのが好きな社長なので、かなり長時間、言い訳をまくし立てていましたが、その内容を要約すると、“私はこの釜を作っただけ、買って使うのはあなた方、炭と言っても色々な種類があるし、それぞれ燃える温度も燃え方も違う、そんなことまで私は分からないし、熱が出過ぎるというなら、出ないように少しずつ熾してはいかが”というものです。
“当初の説明不足でご迷惑かけて申し訳ありません”の言葉は、結局一度も出ませんでした。
あげくに、“何のために私を呼びつけたのか、もし釜を引き取れと言うのなら引き下げる”と、開き直る始末。

では、百歩譲って、我々が初めて炭を使う店を作り、素人だから使い方が悪かったとしましょう、でも、このままでは危険だし、熱の問題も困る、その上でお願いなのですが、例えばこの蓋、今実際、社長自身が落としてしまい、取り扱いに苦労したでしょう、もし、蓋を全開にしないことで熱の量が減るのなら、全く閉めてしまうと炭が熾きないので、蓋に空気抜け用の穴をパンチング状に空けて特注で作って貰うわけにはいきませんか、それなら熱して熱い蓋を苦労して動かさなくても良いので、と私が社長に話しました。
既に買ってしまったのだから、済んだことは済んだこととして、今後の対応策を提案し、改造などの協力をお願いしたわけです。

すると、彼は“私は自分でこの釜を造ったわけではない、プロの職人が自信を持って造っているのだから、彼らの誇りの問題として、一度完成品として売っているものをどのような改良もアレンジも頼むつもりもないし、自分もそのような要求には答えられない”との答え。
受注製品なのに、どうしてそのような顧客のニーズに、それも蓋を作り替えるだけの簡単な要望に応えられないのか、と押し問答が続きましたが、社長は“出来ない”の一点張り。
そのうち、それまで黙っていた息子が突然大声で、“大体、これはただの道具です。道具というのは、人が使うもので、使い方によって機能すればしない場合もある。造った職人は、プライドを持っているのだから、使う側がこうしてくれと言って変えることなど出来ない”と叫び出しました。

それを聞いた施工業者さん、それまで黙って立っていましたが、“さっきから職人、職人、ってえらそうに言うけど、あんた、実際職人の何を知っているの。じゃあ、造った職人さんに会って、話して聞いてご覧なさいよ、こっちは職人というのなら毎日毎日、色んな業種のあらゆる職人さんと仕事してるんだ。職人のプライドって、一体何よ。本当の職人だったら、使う人のこと、まず第一に考える。使い勝手が悪かったら、使いやすくしよう、って考える、それが職人じゃないの。電化製品だって、我々の使う道具だって、そうして進歩してきたんでしょ。一度造ったらそのまんま、使った人がこうだったらいいのに、という声を全く聞かずに、何の努力もしない、ってそれが職人のプライドだって言うなら、あんた、ホントの職人が聞いたら怒るよ”といきなりまくし立てました。
多分、ずっと聞いていて、彼らが職人というものを都合良く自分たちの言い訳に利用しだしたので、我慢ならなかったのでしょう。

ところが、この社長も社長なら、息子も息子で、頑固さと口が達者なのと、自分の都合でしか考えないところは全くそっくり。
そうまで言われても、ますます声を大にして、“そりゃあ、10年とかのサイクルでは、変わっていくでしょう、でも、私たちは今の時点では全くこの釜を変える必要も感じないし、変えるつもりもない、人の意見を聞くつもりもない”と言い切ったのです。
要は、彼らにとって“客”とは、店に来て品物を買って帰る人間のこと、売ってお金を貰えばそれで終わり、その後は一切関わり合いたくない、ということだと私たちは理解しました。

そこで、それまで黙って話を聞いていた安東のオーナー会社の社長が、“もう、いつまで話しても平行線だから、分かりました、どうぞ、お引き取り下さい”と言って、彼らを帰しました。
その後、安東の社長は、“ああいう人間とはどんなに話してもダメ、全く違う世界にいる人たちだから仕方ない。 まあ、買ったのは我々だから、返品しないのなら、使う側で気を付けて、火事など起こさないようにするしかないね”と言ってくれましたので、まあ、一件落着と言えば落着なのですが、収まらないのは我々です。

あれほど設備に気を使って 苦労し、一月半もの間こつこつと現場を造ってきて、綺麗に綺麗に磨き上げ、さあいざレセプションという晴れの日に、寒い外で何時間も暗い壁に張り付いてダンパーを直していた施工業者さんと設備業者さん、それをずっと立ったままでハラハラしながら見守っていた私。
釜○の社長を呼びつけた日には、我々だって本来なら必要のない打ち合わせのために、時間を取って来ているわけです(誰もその日当は払ってくれない)。
それなのに、全く言葉の通じないような相手に興奮してエネルギーを使い、その結果、何の成果も得られない虚しさ・・・。
私も施工業者さんも、職人でもない人間がえらそうに“道具”だの、“物づくり”だの、“職人のプライド”などと口にするのが、どうしても許せません。
その怒りの残り火は、その後、何日も私たちの胸に嫌な思いを残しました。

道具とは、長い歴史の中で、人が暮らしを営む為に、必要だから生まれてきたものです。
必要は発明の母、と言いますが、そもそも道具とは、我々の祖先である類人猿が、何かを切ったり叩いたりするのに、傍らに落ちていた一つの石、一本の木の枝を工夫して細工して、生まれてきたものです。
誰かが、“こんなものがあったら便利だろうな”と考え、それを機能的な形にしていった、そこでより使いやすい形、大きさ、システム、そうしたものが求められて進化していくものだと思います。

発想自体は一人の天才が考えたものであったとしても、使う人間が多くなればなるほど、使う側の声がその道具を進化させ、発展させ、新たなものを生み出していく、その繰り返しが文明を作っていくのではないでしょうか。
しかし、その中で確実に残り進化していくものは、“作る側にとって良い物”ではなくて、“使う側にとって良い物”であるはずです。
我々物創りに関わる者としては、そのことを常に忘れずにいたいと思います。


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